記憶を辿る 75話
– 武蔵工場 –
武蔵工場が完成して数年後。
私が小学校高学年の頃に叔母家族が工場に移住する計画が浮上。娘を思う父親を思うと切ないが、彼女の家族のためと武蔵工場に2階建ての社宅を祖父が作った。
叔母からすれば念願のマイホームである。
随所に彼女のこだわりを感じる家が仕上がった。
この機会に乗じたのか定かではないが、田舎住まいを始めた叔母家族が住まう横のコーポに父も入居し始めた。時は1980年台中盤、山城の波は全てを巻き込んでいく勢いだったのだ。
叔母はマメな人で、料理はもちろん美的センスのある人だった。
従兄弟達が作った風で祖母にプレゼントした貯金箱などは、今の時代でも色褪せない可愛さと遊び心を感じるプレゼントだし、山城を手伝う前は看護師をしていたこともあって、妙に肝が据わっているけれど女性ならではの柔らかな部分も持ち合わせるような人だ。
当の私は仲が良かった従兄弟達が大分に住み始めたこともあり、武蔵の社宅やコーポを行ったり来たりして楽しい夏休みを過ごすようになっていた。それ故、小難しい顔ばかりで愛想のない祖父がいる国東工場の社宅より、武蔵工場の方が好きになったのは言うまでもない。
ただ移住するも程なくして京都に戻ってしまった叔母の住んだ社宅は長く空き家だった。これでは家も悪くなるからと祖父母が晩年過ごしていたが、2人が他界後はまたもや空き家状態。
私が移住した当時で15年落ちぐらいの一軒家である。
まだまだ住める状態に加えて楽しい思い出の詰まった社宅に私が住まう事になるのは時の流れ、人が動く中で当然だったのだろう。
京都の街の中で育ち、3階建てではあったが全てが我々の居住空間だった訳ではない。人が常に出入りをし、2階では裁断機がガチャコンガチャコン、叔父さんのFMラジオや会社への電話が鳴り響き、表は事務所で居間は寝室をも兼ねていた。
新生活では憧れの空間を手に入れた。
当時はTV全盛時代で、京都では余すことのないチャンネルを見れていたが、武蔵工場ではNHKと民放2チャンネルしか映らなかったこともあり、MTVの見れる衛星放送を契約。
ただ受信料も高かったので衛星放送は1年ほどで解約、30,000円ほどした受信機の残骸だけが今も納屋で眠っている。amazonのfirestickさえあれば情報を貪れる今と比べるとなんとも不便な時代だ。
この民放2チャンネルしか映らないストレスは半端ではなく、雑誌や漫画も発売前日には書店に並ぶ京都とは違い、だいたい1週間ずれる。少年ジャンプなどは木曜日に発売されるような土地でもあったので、常に情報を取りに行きたい性分の私は当面の間”これ問題”に文句ばかり言っていた。
あったはずの”それ”がない不憫さ。
慣れとは本当に怖いと感じる。
もし今の時代、携帯がなくなったり、電波が少し悪いだけでこの世の終わりを感じるあの感じ。人と話す途中にも携帯に目をやりながら話をする日常。便利になったは良いが、心をどこかに置き忘れたような気になるのは私だけだろうか。
手に入れたい情報はファッションや音楽が大部分を占めていたが、アメリカから帰国してからは家にあった”windows95″を使って友人とメールをしていたこともあり、この頃には既にPCは私にとって必需品となっていた。
大分市内にある大型電気屋でThinkpadを買ったのが自身初のPC。
今でこそギガやテラは当たり前だけれど、当時購入したPCなどメガすらなかったんではないだろうか。立ち上げ時やWEBサイトを閲覧していると内部で”ジジジジ”と怪音が鳴っていた。
そんな田舎町ではあったがISDN回線は早くから通っていて、これがあったおかげで救われたことも多く、夜遅くまで友人とチャットをして過ごしていたことを思い出す。先のアメリカにいた友人は、この頃には韓国で仕事に就いており、お互いに1人で過ごす夜の寂しさを補い合いあってすごしていた。