記憶を辿る 63話
– テナント探し –
アメリカに着いてからずっと店舗探しも行っていた。
ユタは自然溢れる穏やかな街の中で開業できそうだったが、住んでいる人間があまりにも保守すぎて、極東エイジアンの細長い麺に動物臭のあるスープを入れた食べ物など受け入れられそうになかった。
マイアミでは口にする食べ物の多くが南米色が強い柑橘系でフィニッシュされている事が多く、試しに入った寿司屋で”イルカ”を出していた事もあり、食文化の大きな違いを思い知った。
ちなみにイルカは、イカのような食感のある淡白な白身魚のようだった。
勝負するなら様々な人種が入り乱れ、圧倒的な人間がいるニューヨークなのは明白だったが、たまに出くわす空き店舗の”FOR RENT”看板に書かれた賃料に、何度見ても目が飛び出しそうなった。
それと同時に、あの油っこい中華料理屋でさえも同じような賃料を払って営業しているのかと思うと、多少の油っこさも許してしまう賃料だったことも覚えている。
これに遡ること数年前。
ある映画のオーディションで上京(後述する)した事があった。
この時にもチラチラとテナントの賃料を目に入れていたソレとも違う、大阪など比べものにならない程の賃料が普通に提示されていたのがニューヨークだったのだった。
いくら世界の中心地だとはいえ、文化の違いや言葉の壁がある中、何の杵柄もない若者が勝負するような街ではないことに気付き、完全ノックアウトだった。
今思えば、当たり前の話だ。
ラーメン店の開業に向けて、昼は建築資材の運搬、夜は花屋とバイトを掛け持ちしながら、夜中にスープや麺作りに没頭していた訳ではない。
まずはお金からだと照準を定めたとはいえ、それで満足していた自分がいたのが事実だろう。
偏差値が高く、将来の道が開けそうな高校や大学の入試を経験した人間ではなかったからか、期限を決めて進めるといった時間的な尺度もなかったのだろう。勉強には向かない自分がいて、他に少しでも楽しいな、やってても疲れないなと思えることがあったなら、それに没頭すべきだったんだと思う。
こうして海外へ進出する前に、まずは地元京都からとなった。
そしてこのアメリカ放浪時に様々な出会いと会話から知った、自分では持ってないように思っているが、実は既に持っていた物を知ることになった。
それは”京都”という街のネームバリュー、ブランド力だった。
もともと京都は観光都市だ。
しかし私が20代の頃は、今のように様々な飲食店や物販店があった訳でもなく、日本の中で言うと”まぁまぁな観光都市”ぐらいでしかなかったはずだ。
しかし白人や黒人、インディアンや南米人など、私がアメリカ放浪で触れ合った人間が人種問わず知っている街、それが京都だったのである。
何なら日本と言っても伝わらず、京都から来たというだけで彼らからの質問も多くあり会話が弾むことも多かった。自分では見向きもしなかった京都の底力を垣間見る出来事だった。
問題のオーディション話だが、自分自身の歩んだ過去を見直し、リハビリとして小学校の頃の思い出を取り入れたことがあった。少人数の小学校だったが、毎年行われる学芸会が凄く楽しかったのを思い出したのだ。
先生が仕上げた台本を勝手に脚色し、観客にウケるようにメイクをしたりギャグを取り入れたり。
小さい頃からの夢だった訳ではないが、リハビリの一環として取り入れるには充分な思い出で、役者という選択肢にもトライしてみようという気持ちの結果が映画のオーディションだった。
月刊シネマかキネマ旬報だったかは思い出せない。
河原町六角の京都宝塚劇場1階にあった大型本屋で見つけた巻末の告知枠。
どういう人間を探しているのかわからないままだったが、友人に一次審査用の写真を撮ってもらった。
これが元で「あいつ役者なりたいみたいやで」という浅い考えの友人達はこぞって茶化しだす。竹中直人さんのようなという前置きや、リハビリに…という話はいつの間にか「あいつエェ男やと思っとる」に変わり、絶好のおちょくりネタになったのは言うまでもない(笑)
まぁそうかとも思うが、世間ってのは上澄みだけしか見ず、説明すればするほどに上澄みが本体を飲み込んでいく。こういう場合、黙っているのが一番かもしれない。
そして何故か審査は通り、東京に呼ばれたのだった。