記憶を辿る 77話
– 社員さんとの壁 –
少しづつ国東での生活スタイルやリズムも整い、外回りだけでなく裁断や荷造り、アイロンに検品に納期管理など。受け入れられるキャパシティなど関係なく叩き込まれる日々。
小さい頃から”全てが仕事”と教え込まれていたこともあり、あれが嫌、これは違うなどという事は論外だ。いや正しくいえば、大分工場にいるスタッフ全員に、1日も早く認められたかったんだと思う。
祖父が立ち上げ父が支えてきた中で、スタッフには感じ得ない親子の溝は父親にもあったに違いない。同族経営にありがちな話だと思うけれど、外部から見れば喧嘩のようなことも、親子間ではさほどダメージのあるような溝でなかったとも思う。
一人前だと外部が認めても、父から見ればただの鼻ったれ息子。
本来は仕事と関係ない話でも、それは父から放たれる言葉の端々に現れた。
スタッフからすれば同調できるような内容も時にはあったから、同じように見てしまう。
あるあるだと思う。
これは大分に移住した私の身にも起こっていて、誰よりも朝は早く、夜は誰よりも遅くまで仕事をこなしていた私ではあったが、工場にいるスタッフからはいつまで経っても”認められる”ことはなかった。
いや認められる言動もなかったのだと今は思う。
人が3年かかるところを1年で。
この事ばかりに目を向け過ぎてしまい、一度言われたことは次にミスのないようにするのだが、教えてくれるスタッフさんは、間違いがあってはいけないと思うから2度も3度も説明してくる。
これに対して”わかってるって”という態度をとり、「なんで何回も同じこと言うてくんねん」ぐらいに思っていた当時の私は、スタッフさんからすれば”生意気で腹立つ奴”、”教えてやってるのに”という図式で作業はできていても、日に日に孤立していくのも無理はなかった。
金曜の最終便で京都へ、日曜の最終便で大分へ。
月に一度、京都に帰る週末を父は作ってくれた。
週末が明けて工場に戻ると全体の空気が変わっていることも多く、まだまだ血の気も多い若輩者だった私は、部外者のように扱われる事に不貞腐れ気味で仕事をこなす。その姿を見てまた話は膨らみ、噂話も絶えない。
実態はどうであれ、どれだけ頑張って仕事をしようとも、向こう岸からは”Theボンボン”としてしか見られておらず、時折、現地の方言で私にわからないよう”いけず”もされるようになり、どんどんと田舎の小さい世界で”頑張る”という言葉の意味がわからなくなっていった。
これに加えて10日間は大分、5日間を京都で設定していた父親の動きが変わりつつあった。私が居ることで他のことに手が回るようになったからなのか、5日間を大分、京都を10日に変更したのだ。
たださえも友人も知り合いも居ない大分である。
工場の人間とも上手くいかない中、作業は出来てはいるがどこまで行っても新参者のボンボンが、会社の息子として社長不在の間に1人で工場を守らなければいけないというストレスは大きかった。
ある夜、仕事と晩御飯の買い出しを終わらせ国道を走っていた時のこと。後ろから”ビタビタ”に私の車を煽る1台の軽自動車が現れた。
ドライブレコーダーが備わる今なら完全にアウト案件だ。
問題は、その車を運転する相手だった。
バックミラーに映る軽自動車は、山城社員が通勤に使っている軽自動車と同型だったのだ。私は目を疑い、そんなはずはないという思いと、絶対そうだなという思いの間で心は揺れ動き、この時はやり過ごすという選択をした。
眠れない一夜が明けた次の日。
問題の車種で通勤する社員に率直に聞いた。
「 昨日、俺のこと煽ってたでしょ」
聞かれた彼は一瞬、気まずい空気を発したがすぐに「あっバレちょった?w」と言葉を返した。それ以上、何も言い返すことはしなかったが、埋めようにも埋まらない溝は決定的となった。
彼からすれば新参者に仕事を教える中、先輩として振る舞いたくても社長の息子であり、矢継ぎ早に私の学ぶ場所も変わり、どんどんと置いていかれるような気持ちになっただろう。
また私が現れたことによって自分の”仕事”や”担当”が奪われるかもと思ったのかもしれない。
私はここを仕切ってきたのだというプライドもあったと思う。
正義とは、見る方向、フィルターが違えば全く異なる。
そこにある真実や出来事は一つでも、取り用で如何様にも変化する。
どれを選択するかは自由でも、一つ選択を間違えば大きな間違いとなり、それを修正したくてもプライドが邪魔をして身動きが取れなくなる。
どんな問題でも、それは起きるべくして起き、それに繋がるような行動している自分が居るという事を踏まえた上で原点に立ち返り、冷静になって、事の発端と主旨、目的を見失わないよう心掛けていきたいと思う。