記憶を辿る 73話
– 大分生活 –
フェリーの朝は早く、朝日が昇る時間には下船を迎える。
重油と潮騒の匂いが名残惜しくもあり、これから迎える新生活に心が躍る。
山並みには湯煙が立ち昇り、別府湾についたサンフラワーを横目に9号線を北上して行くと、城下かれいで有名な日出市、ついで杵築市、工場のある国東市へと繋がっていく。
この頃はまだ”国東郡”だったが、住んでいる間に統合されて今では”国東市”になった。
私が幼い頃に見た景色は、キラキラしていたのだろう。
工場までの道順を聞かずとも車のハンドルは勝手に動く。
祖父が最初に作ったのが国東半島の北部にある国東工場だ。
豊後水道と玄界灘を結ぶ下関も近く、海の幸が豊富で自然豊かな町。
幼いころ、海の暗がりに浮かぶ対岸の明かりは”愛媛県”だと教えられたが、Google先生は”山口県”にある田布施だと上書きしてくれた(笑) 国東市から北上し続けると宇佐神宮、稗という苗字が多いという情報もある中津と色々あり、縁を感じる土地である。
自身の年齢と置き換えて考えると、齢50歳をすぎて移住を決意した祖父母の心境は一体どういうものだったんだろう。
当時はベビーブーム世代が戦力になってきた昭和時代。
人は潤沢に揃っていて、繊維産業が花形だったこともあり、求人に困ることはなかったと聞くが、現地の人に一から服を縫うということ、商品を扱い管理するということの温度差を補う労力は半端ではなかっただろう。
一方で走り続ける祖父と共に歩んできた父だが、当時はまだまだ血気盛んな若者である。慣れ親しんだ京都人との文化や習慣、言葉の違いを埋めながら、サポートをし続けていくには人に知られぬ苦労を重ねたことだと思う。
その上で”いま“があることを片時も忘れてはならない。
国東工場内の稼働も安定しだした頃、ミシンを各家庭に提供して仕事をしてもらう外注さんもドンドンと増えていく。それは国東市一帯に広がりを見せ、もう一つの拠点として武蔵工場を稼働させるに至っていく。
この期間はわずか5年。
今よりも時の流れはスローでも、この時代の勢いを想像する。
慣れ親しんだ武蔵工場に着き、引越しの荷物を下ろしていると携帯に「お前なにしてんねん、国東工場こい」と父に告げられた。引越しの荷物も下ろしてないのに来いて … と思いながら国東工場へ移動すると
「今日からお前この部屋つかえ」
と祖父や祖母が生前寝室にしていた部屋を指定した。
布団やベッドは武蔵の社宅に下ろしてしまったから、当分は此処で寝泊まりを始めることになったのだが、私はこの見た目以上に軟弱な都会っ子である(笑)
幼い頃から、大分と京都の二重生活を余儀なくされていた私の父は想像していなかったに違いない。知らぬ所に泊まった時に発症する私のアレルギーを。