記憶を辿る 65話
– 故郷への興味 –
長かったアメリカ生活に終止符を打ち、京都に戻ってからもまだ悶々とした生活を送っていたが、アメリカ各地で得た”京都”という都市のネームバリューは本物なのだ。
その京都で当時40数年継続して経営してきた山城に、少しずつ興味もが湧き始めた。
山城に入ったとして何が出来るのだろうかと。
そして京都のことを何も知らない自分に嫌気が差していた。
この頃の京都は、まだまだ金閣寺の絵が描かれたようなペナントやキーホルダー、シナモン味のお菓子が主流だった頃だ。今ほど細分化されておらず、”京都”と書かれたTシャツが跋扈し、私が小さい頃から見てきたものの延長線上にあるものだけだった。
言葉を変えると、まだまだ大手メーカーからの下請けで充分に食べていけた企業が多かった時代で、自力でブランドを発信したり、プロダクトを開発するような企業は一握り、今のように多様性を見せる前の京都だった。
インターネットはあったが、触っている者は少なかった。
まだまだTVや雑誌が主流で、首都東京から発信される事が全てだったのだが、この時期の地方で特徴的だったのが、各地方には地元を紹介する雑誌が人気を博していて、京都でもそれは同じだった。
京都では” Leaf “や”クラブフェイム / CF “という地元誌があり、これに掲載される事はその店のステータスを表し、店主やスタッフなどはアングラな芸能人のような体を成していて、少し違うけれど規模の極小さいミシュランガイドのような存在だった。
そんな雑誌に取材を受けるバーや飲食に入った友人は、どんどん単焦点の”ボケたその先”に写り込んでいく。京都という都市が”何か”を生み出すきっかけになる気はしていても、何をして良いのかわからず悶々とすごす自分としては、気持ちは焦る一方だった。
この頃、1人の元芸妓ちゃんと知り合った。
知り合ったというよりは、山城の向かいにあった店で働いていたスタッフさんだったのだが、年端が近い事を感じ取ったのか話すようになっていた。彼女は私を親しげに”お兄ちゃん”と呼でいた。
しかしこれは親しさを込めた呼び名というよりも、アレコレいる”お兄ちゃん”との間違いを防ぐためだった。
あの世界は誰を呼ぶにも” お兄ちゃん、お父さん、先生 “で済ます厄介な世界だが、試しに先輩を”お兄さん”とか”兄貴”とかで呼んでみると、ほぼ100%「おうおう」と気前がよくなってくれたから、良いスキルを身に付けたと思ったものだ。
後年、百貨店の接客に応用しようと調子に乗った私は、お客様を”お母さん”と呼んだ事があったのだが、これには流石に「あんたのお母さんちゃうし!」と本気で怒られた。
女性はやはり”お姉さん”と呼ぶべきである(笑)
話を元に戻そう。
彼女は今では少なくなった京都市内出身の元芸妓で、地元も隣だったが早々に舞妓の世界に入ったこと、生まれ育った環境や進むべき道が全く違ってきた事から、住んでいる世界が違う人だった。
それに所謂”旦那さん”がいる人だったから、”それ以上それ以下”にもならないけれど、私の知らないことばかりを知っている存在なのは確かで、貪欲に京都を知っていくには良い先生だった訳である。
ちょうど私が京都の住民として腰を据えるかを迷っていた時期。
ある時、彼女が聞いてきた。
「お兄ちゃん家は何したはんの?」