記憶を辿る 21話
– 音楽と私 –
小学校当時の音楽についても記しておこう。
母親の情操教育でウィリアムテルを聞かされ、目が冴えて眠れなかった話は以前 (連載5回目)にしたが、エレクトーンは幼稚園から4年生頃まで習っていた。通ったのはYAMAHA音楽教室。信愛幼稚園西隣のビルにあった。
最終的にはドラムも教えてもらうようになって、おかげさまで音符はかろうじて読める。
だからもう少し子供達が大きくなったら、何かの楽器で再始動しようと小さく企んでいる。
前号 (20話)で書いた伯父さんの部屋にあったレコードにも影響を受けた。
収集棚にはビートルズに始まるロックからYMO、日本のベタな歌謡曲まで幅広いジャンルが収まっていた。2,000〜3,000枚ぐらいあったのではないだろうか。伯父さんが居ない間にこっそり忍び込んで聞いた思い出の音楽は、クィーンとマイケルジャクソンで、毎日忍び込むのはまずいから、お小遣いを貯めてマイケルのカセットテープを購入。
当時はマイケルの日本公演があるとかないとかの時期で、フズバッのBADが一大旋風を巻き起こしていた。父親が聞く古き良きアメリカのロックンロールも好きだった(9話)のだが、キレッキレのダンスに合わせたBPMの早い、アメリカの今に衝撃を受けた。見よう見まねで何度もポウポウやっていたことを思い出す。
この当時、伯父さんは音楽関係の仕事も手がけていて、裁断場のある2階手前には、小さい事務所があった。
その事務所から流れてくる音楽は、ニューヨークやロサンゼルスのラジオ番組を録音したテープを四六時中流していたから、まるでアメリカに存在する工場のような錯覚を演出してくれていた。おかげで小学生にして1980年代の音楽を体感していたのだ。
そんなとき、大阪球場にマイケルが来る!
と沸き立った。どういう訳だかコンサートのチケットが入るから「真平行くか?」 とおじさんが言い出した。毎日ポウポウの坊主は、天にも昇る気持ちでお願いします! と頼んだ。
コンサート当日、TVではマイケルは風邪を引いて公演ができるか分からないと報道。特殊経路で手に入れたチケットは、ステージから10列目ぐらいに位置するド真ん中のプレミアムチケット!パイプ椅子の上に乗った坊主は小雨の降る中マイケルの登場を待った。
マイケルの風邪よ治ってくれ。
何度も心で叫び、連れて行ってくれた伯父さんとその彼女に「大丈夫かなぁ」と幾度問いかけただろう。席について1時間ぐらい経った頃、コンサートスタッフ達が慌ただしくステージを拭き出し、事情を把握した大人達が「マイケル!マイケル!」と合唱し始めた。その声援は次第に球場全体に広がっていき、それは花火と共に始まる大音量のオープニングミュージックで最高潮を迎えていた。
五感で感じる全体験が初めての中、私はまるでネバーランドにいるようだった。
その瞬間
大音量が止み、ステージ上にマイケルがピーターパンのように飛び出し、5秒ほどの静寂の後、BADのイントロが流れ始めた。
世界最高峰のエンターテイナーを目の当たりにした瞬間だ。鳥肌が立つ、痺れる、絶句、どのような言葉が当てはまるのか分からない。その後のことも記憶にない。
雷に打たれたような衝撃、おとぎの国に迷い込むと副作用として記憶が飛ぶようである。
これ以降、田の字地区の友人と校区外に新しくできた(烏丸高辻) 輸入レコード店「タワーレコード」に足繁く通い、縦に細長い紙パッケージの洋楽CDを漁り始めるようになっていく。ボブマーリィやランDMCなど。中学になるとMCハマーやヴァニラアイス、高校になるとセックスピストルズに代表されるパンクを掘り下げていくことになる。
しかしマイケルジャクソンを好きだった時のように、固定アーティストのファンになるということはなかった。広く浅くが基本。言葉がわからない故に、感情移入も余り起こらないのが丁度よかったのかも知れない。
今でもそうだが気持ちが揺さぶられてしまう邦楽は得意じゃない。
「小田和正」さんのCMなんて見た瞬間には涙が出てしまう。
感情に起伏が起きてしまって、抑圧している何かが溢れてしまう。
だからマイアルバムに入るのは「やしきたかじん」ぐらい。最近では「竹原ピストル」も新規参入してきたが。
こうして少しおませな小学生を演じながら、要所要所で音楽と触れ合っていくことになるのである。