記憶を辿る 83話
– ひとすじの色 –
前話でお伝えしたように、私がクレープ肌着の心地よさを知った頃、大分から京都へ帰省する度、母は通い出したカルチャースクールのことを、うれしそうに話してくれた。
思えば、私が大分移住したことで、時間と余裕ができたのだろう。
ある日、絞り教室のことを話してくれたことがあった。
その時は、「また何か始めたんだな」ぐらいにしか思わなかったが、今にして思えば、これが現在の事業に繋がる大きなターニングポイントだった。
絞り染めとは…
染料が染み込まないよう、布を幾重にも糸で縛って染め上げる。
この縛ったところが模様となって浮かび上がるのが絞り染めだ。
6世紀頃には日本でも普及していたというから、とてつもない歴史がある技法だ。
この絞り教室で使う布に、母親は山城で出るハギレを使った。
今でこそSDGsやモッタイナイというのが主流ではあるが、山城では最後の最後まで残布を大切に使用する文化がある。
ほんとのハギレは廃棄するしかないが、型紙によってはブロックで残ることもある。
このブロックをパンツのポケットや裾リブに使うことで、無駄がないように工夫している。
これはファクトリーブランドである山城だからこそできることだ。
協力工場に依頼するとこういった取り組みは難しく「残布は山城に送ってくださいね」とお願いしても、そのほとんどは廃棄される。
もしかしたら大手企業においては、昨今のコスト削減やSDGsの観点から、工場に出向いて初めて、今までの無駄に気付いたのではないだろうか。
こういう取り組みが現在も継承されているのは、我々のような企業規模だからこそであり、布を大切に使おうという精神が根付いているからかもしれない。
綿100%の薄地のクレープ生地は、綺麗に色が入ったようで、母親は何枚も何枚も練習を重ねて染め上げていた。
母のハギレでの練習は、クレープ肌着のC品にも行われるようになった。
京都に帰る度、増え続けるコレクションを見た私は、色のついたクレープ肌着を見て”これはいける”と感じた。もしかしたら…という商機を母も感じたからこそ、コレクションが増えたのかもしれず、後に祖父もまた、過去にカラーのついたクレープ肌着を手がけた時期があったと工場に残っていた残布から知ることになる。
毎年行っていた例のワゴンセールで、モノは試しと販売してみた。
販売価格は覚えていないが、母の労力や染色のコストなど考えていない価格だったことは確かだ。
ワゴンセールで手に取ったお客様は必ず購入するぐらい、飛ぶように売れたのである。
これは、大分で過ごす白物一辺倒だった生活に色が差し込んだ瞬間だった。
この経験をきっかけに、私も大分でC品やハギレを染めることを始めた。
それはまるで、持て余した休日に彩りを加えるような時間だった。
そしてその頃、私は”Tシャツブランド”を立ち上げることを企んでいた。
当時、ストリートブランドが全盛期。ステューシーやエクストララージ、バッドボーイといったブランドが人気の時代。ロゴがドンとプリントされたり、グラフィックデザインが入った服たちである。
私の企みは、仕入れたTシャツに自身でデザインしたグラフィックをのせて販売しようと思っていた。
デザインソフトにちょっと触れたぐらいの経験と無知さが生み出した、自身の企みに吹き出しそうになるが、思いつけばすぐに走り出すことで満たそうとする私の行動原理は、もがいた時期があったからこそ身につけてた癖なのかも知れない。
朝から晩まで白物一辺倒の田舎生活、移住期間が決められていた訳でもない、終わりの見えない後継者としての未来がそこに生まれつつあった。
そしてこの言葉が正しいかはわからないが、大分の地から”逃げ出す手段や方法”を探っていたようにも思う。格好をつけるなら、安定よりもスリルや挑戦、刺激を求めていた。
染色の道を志したわけでもない、工場を広げる思惑があったわけでもないのに、夜毎思うような色を出そうと大きな鍋と闘う日々。今の生活を抜け出すために動き出したけれど、その前に知っておくべき最も重要な事を忘れていた。
“服作りのこと全く知らなかった”だ。
そう、確かに全くの無知だった。
クレープ肌着というニッチな商売とはいえ、繊維産業の端っこにいるはずの父と母に小さな疑問を投げても答えは曖昧。
その時はまだ知ることもない未来では、百貨店さんとの付き合い方や、雑誌や新聞というメディアへのアプローチの方法など、大きくも小さくも出現するあらゆる壁に、自身で当たり続けることで進んでいくことになる。
今でもふと思う、少しでもアドバイザーがいたのなら小さい壁になったのにと。
こうして染色なら染色の道を志すような、本物思考への呪縛に取り憑かれていた私は、服を作るにはどうしたら?となったが最後、大分市内にあった服飾専門学校の門を叩く事になるのである。