記憶を辿る 78話
– 近場の気分転換 –
私が手伝い出した頃は、縫製工員さんの名前を覚えるのにも苦労した。
外注さんも潤沢で、1日のノルマ的に500枚ぐらいを投入しても「これじゃ足りん! もっと持って来て!! 」と怒られることもしばしばあり、人によって投入する数や性格も把握しなければいけない。
後年、当時の外注さんにお会いすると「 家を新築させてもろた 」「 子供を大学まで出せた 」などと言ってくださり、潤沢過ぎるほどに請け負った仕事を手伝ってもらったのはコッチなのに、感謝をして頂けるんだと感慨深い思いになった。
以前にも山城の社員旅行について行った思い出を綴ったが、工場勤務になってからはメンバーとして参加した。旅行積立金も健在だったようで、草津温泉や各地方への慰安旅行にも行っていた。
昭和の社員旅行のように大宴会とまではいかないけれど、大広間を貸し切って食べる宴席はやはり良い思い出だ。新参者への”いけず”はあったものの、それも含めて基本的には可愛がって頂いていたのだと思っている。
「 こげな田舎に移り住んで仕事しちょって楽しいんかぇ 」
「 また晩御飯食べにきぃよ 」
「 よ〜やっちょんのぉ 」
と掛けていただく言葉が嬉しかった。
孤独と闘うといえば大袈裟かもしれないが、そういう現状を少しでもわかってくれる人がいることが、同僚なようでメンバーではないジレンマが生み出す”心の闇”を補ってくれていた。
「 はよ〜お酒をみんなに注いで周りよ 」
「 何をボ〜ッとしちょんの! ○○さんにお酌!! 」
旅行の宴席では、この時を待っていたかのように発散される。
新参者かつ働いた事もないクソ生意気なボンボンといった具合だ。
件の彼にもお酌をしながら全員を労い、カラオケではトップバッターで盛り上げる。九州の女性は結構お酒を飲むようなイメージもあるが、少なくとも国東の女性は控え目だ。
外食する場所が極端に少ないことも理由かもしれないが、家では女性が動き回り、男性は座ったままのスタイルの家庭が多かった世代なのか。ビールをちょこっと飲む程度で顔は真っ赤っかになっていたのが可愛らしい。
小さい頃には宴会場を走り回っていた私が、今では共にお酒を飲む間柄になった事を誇らしげに見守る父親。温泉に行けども共に入ることはなく、時間をズラして入った帰りに、添加物だらけの土産物を物色する父親。綾小路きみまろさんのようにメンバーをおちょくり、自身もふざけながら日頃の手綱を緩める父親。
私も父に習って、お試しに”きみまろ節”を会話の合間で出してみたがムッとされて駄目だった。
ご飯屋さんでもそうだ。
よく漫画とかにある小料理屋に入り「 よっ大将いつもの 」なんていう行動に憧れ、背伸びしてトライしてみても何か違和感がある。こちら側はどこか粋っていただろうし、店側からすれば怪しげだったに違いない。
ようやく40代を迎えようとする頃から、ご飯屋さんで1人酒をしても大将とは仲良くなれ、メンバーにもウィットに富むような掛け合いが出来る様になってきた。放つオーラなのか、返す言葉に”心”が入っているとでもいうのだろうか。
深くは分からないけれど、何をするにも”年の功”というものは存在するようで、それは経験を表す顔つき、立場を想像する目つき、体型、話し言葉で分かる知識であったりと色々出てしまうようであるから、やはり工場勤務をし出した頃の私は、若輩者で新参者のボンボンだったのだ。
今の私が、当時の彼を見たらどうするだろう。
多分どつきまわしてるだとうなと思う今日この頃だ(笑)