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コラム アメリカ ユタ ユタ州 ソルトレイク オグデン

アメリカの地

サンフランシスコ経由ソルトレイク行き。
関空から約10時間、サンフランシスコに降り立っただけで、新しく買ったスーツケースの車輪は取れていた。物へのぞんざいな扱いに対して、これから起こり得るアメリカでの未来に、緊張と期待が膨れ上がった事を覚えている。

そこから約2時間ほどのフライトでソルトレイクに着くと、幼馴染のUが出迎えてくれた。
2002年の冬季オンリンピックが決定してからは、ソルトレイクも大きく発展したと聞くが、私の訪れた時はアメリカ田舎州ランキングの上位だった。あるのはモルモン教本山と、どこまでも長く続く山並みと高速道路のような国道のみ。

私がロサンゼルスで味わった開放的な都会の空気感とはまた違ったが、それでも果てしなく広い空は同じで、アメリカ大陸に来たのだと実感する。

Uはソルトレイクから、これまた車で約1時間ほど走ったオグデンという小さな町に住んでおり、木造2階建てのアメリカらしいアパートメントは、日本では到底考えられないほどの優雅な生活だった。
玄関から反対のリビングを出ると100mほどある円形の芝生ゾーンがあった。
そう、周囲の部屋と共有で使う庭だった。

ふかふかの絨毯がひかれた廊下の奥に、4人ほど座っても余裕のあるソファ。
10人は雑魚寝が出来るであろう広いリビングの横には、今でこそ日本のマンションでも当たり前になった対面キッチン。2階には大きなクローゼットのある部屋が2部屋とバスルーム。正にアメリカドラマに出てくるようなアパートメントをシェアしながら留学生活を謳歌していた。

留学 放浪 旅 旅行 1990年代 1人 グレイハウンドバス

その円形に組まれたアパートメントに日本人は皆無で、共有園庭の向こうにはネイティブアメリカンの血を引くマーカスと、隣には私と同じような過去を辿ったであろう白人2人、マイルズとクリスが住んでいた。

後にマーカスからは「お守りだ」と言って自身が付けていた”お守りの首輪”を頂き、マイルズからはアメリカの”イケテル奴”を見よう見真似で授けて頂いた。

こうしてアメリカでの生活が始まった訳だが、Uやその周りが生活しているスタイルの全てが新鮮だった。ガロン級のジュースや柔軟剤の入れ物、広大なスーパーにあるシルバーのカートを押す姿、なんでもかんでも乾燥機に突っ込む習性や、シャワーの頻度の多さなど(笑)
インプットが多くて立ち上がりは絶好調。

起床すると近所のカフェに行くのが日課。
このカフェに行くとUの周りの人間が必ず誰かいた。
オグデンに居た間は、必ずこのカフェの「 What’s Up 」から始まり、夜は友人宅で何々をするけど来ないか? 今度クラブでこんなイベントがあるんだなど、20代の日本人と余り変わらない会話がそこにはあった。

とはいえ新参者の私が会話に参加できるはずもなく、Uと彼らの会話に聞き耳を立て、ネイティブの発音する英語に慣れるよう努力した。

セブンアップ = セブンナッ
カフェモカ = カフィモォカ
カマロ コンバーチブル = キャマァロ コンバータボー

こんな感じで日本人が話すカタカナ語は、全く歯が立たない。
しかも向こうは普段通りで会話は早く、途中で出たワードを頭の中で変換している内に会話は終了。聞いたワードだけ抽出して答えようものなら全員が「????」となっていた。
そして私はすぐに身振り手振りの日本語を話し出す。
お先真っ暗、よくある日本人の典型だった。

日本食 スーパー 日本食品 お惣菜 留学生 現地

Uの住む町にはなかったが、ソルトレイクまで行けば日本食スーパーがあった。
最初はバーガーキングだタコベルだと被れていたが、すぐに”醤油ベース”の味が恋しくなる。Uやユタにいるであろう日本人が足繁く通っていたスーパーだったが、驚くほど値段が高かった。

行くとそこには野菜類はなく、店主が作ったであろうお惣菜、輸入された日本の食品メーカーのインスタント麺に調味料、カールやタケノコの里といったお菓子が所狭しと置かれていた。

しかしどれも賞味期限ギリギリの物ばかりで、輸送途中の気圧差なのか分からないが、袋に入ったお菓子なんて今にも弾けそうなぐらいパンパンパンに膨れ上がっている始末だ。
それでも買い込んでしまうのだから笑ってしまう。

ユタに降り立ってから2週間ぐらいは居たのだろうか。
朝はカフェ、昼はユタ観光、夜はマーカスやマイルズがUの部屋に来て楽しんでいた。

こう書くと、彼らとすぐ打ち解けたようだがそうではない。
Uが間に入る友達シード権は得ていたが、当初は日本からきたUが連れてきた得体の知れない東洋人人だったのだが、私がある行動をとったことで様子は一変した。

ある夜、U宅のリビングで軽いホームパーティが開催され、”草むらに突っ込んでいくコメディアン”が映るTVを一緒に見た事があった。これを見たリビングの全員がゲラゲラと笑い転げ、面白いなぁとなっていたのだが、その後に私が真似事で、アパートメント前にある植木に体ごと突っ込んで再現してみせた。

体を張った事が面白かったのか、笑いのツボが近かったからなのか分からないが、Uの周りの人間は笑い転げてくれた。これをきっかけに無事、仲間に入ることが許可された出来事だった。

それからというもの、ポテトフライにつくホワイトソースがバカ美味かったマイルズのバイト先に押しかけたり、一緒にアパートメントの駐車場でスケボーをしたり、時にはオグデンに1件だけあった”ウィーバークラブ”という、奥にビリヤード台のあるビールバーのようなクラブに行って一緒に朝まで騒いだ。
勘違いはないだろうが、身振り手振りは相変わらず(笑)

この1件以降、言葉なんて何とでもなるという事を学んだ私は、次なるステップ、この目に出来るだけ多くのアメリカを収め、ラーメン店を開業するに足る都市を見て周る手筈を整え始めた。

慰安旅行だったけれど”西”はなぞったから次は”東”。
なぜこの”東”を選んだのかは単純明快だ。

渡米したのが9月か10月頃、アメリカも冬に向かって進み始めており、少しづつ寒くなっていた。夏が大好きな私は冬が苦手であり、出来るだけ暖かい所に行きたかった。

いや、正直に言えば東の楽園と呼ばれるマイアミビーチのビキニ女子を見に行きたかったのが本音だ(笑)こうして目の前にあるのは椰子の木と大西洋というフロリダへと向かった。

三代目のコラム 記憶を辿る59話に続く

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