記憶を辿る 57話
– 渡米 –
アメリカ行きを決めてからの行動は早かった。
学生だった時に英語評価が5だった訳はあるはずもない。
唯一続けていたのは”字幕なし映画を見る”事だけ。それでも全く不安はなかった。むしろその事すら考えていなかったと思う。今思うと不安にならなかった理由は2つ。
自分自身が発露し、行動したからである。
誰かに委ねられていたら逃げ口実も生まれてくる。
それまでがネガティブに振り切っていたからかも知れないが、”立ち直り訓練”の一環として”超絶ポジ男”を思い出し、乖離を埋めようとしていた事もあったと思う。
未知なる先に、何が起こるのかに期待しかなかったのだ。
もう一つは、田の字地区の友人がアメリカに住んでいたからである。
学生時に体験したホームステイが発端となり、進路としてアメリカの大学へ留学していたUは、小学校からの幼馴染である。この彼も、そのまたお父さんも面白い人で、”何が生業なのか分からない人”である(笑)
関西では有名でTV中継まで行われた”琵琶湖の幽霊ビル”を爆破解体したり、運動会をヘリコプターで見に来て同級生を驚かせたと思えば、アメリカで電話会社を買収していたり。
田の字から出たと思えば、お風呂に湯を溜めるのに3時間もかかる八坂神社上の旅館に住んでいたり。彼一家から生まれる伝説は枚挙にいとまがない。
ちなみにちゃんとした生業を持つ妹さんの近況を聞くと、インスタグラムでミリオンフォロワーの居るインフルエンサーに仕上がっていて、douéのオープニングで得意の技で盛り上げていただいた。不思議な集中力を持つ彼らを理解しようとするのは無理があるようだ。
コラムにすれば10話は書けそうなエピソードを持つU。
彼は日本人コミュニティのないユタ州の片田舎に住んでいた。
所詮は観光ビザ(3ヶ月)での渡米だった私だが、行く目的の一つに”英語で会話がしたい”が含まれていたから、既にネイティブの輪の中に入っていたのも好都合だった訳である。
心はバックパッカーであっても、広大なアメリカに居てくれる友人というだけで、どれだけ心が安心したかは計り知れない。
拠点をユタに、各都市をグレイハウンドバスで見て歩く計画。
既に携帯電話は持っていたが、着信音を自身で流行りの曲に設定していたような時代。令和のGooge先生が、情報や道案内をくれるはずもなく、頼るは頭に叩き込んだ”世界の歩き方”と現地で購入する地図と方位磁石のみ。
ただ軍資金はあり、ヒッチハイクが必要になるような貧乏旅行ではなかった。
問題は現金をどうするかで、当時はクレジットカードは持っていなかったから、そのほとんどをトラベラーズチェックに替えた覚えがある。それに方位磁石とコンタクトレンズは必須だと思い、痛い目にあったハードレンズから1dayに変えたのもこの頃だ。
ドウデモイイナ。
こうなるとブレーキはない。
拾って頂いた就職先に仁義を通そうと告白した際、「 お前えぇなぁ夢があって 」と声を揃えて言われた。当時は「良いっしょ」ぐらいのものだったが、今になると彼らの真意が分かる。彼らは、その時でしか出来ないチャレンジに嫉妬したのだ。
“若い”という事は本当に素晴らしい。
当時では分からなかった”おっさん連中の戯言”に身が沁みる。
挑戦して挫折して、経験する事で自信の源になるのが分かるから。
この時はまだそんな事はどこ吹く風。
しかしこの渡米で見た物、経験した事で得れた何かは確かにある。
そしてそれは私の人生に大きく関与しているのは言うまでもない。
こうして苦労も笑顔も含んだ、私の新しい挑戦が始まった。