記憶を辿る 38話
– 京阪の最底辺 –
夜毎、朝が来るまで遊ぶ毎日を過ごしていれば自ずと生活は乱れる。
腫物扱いとなった授業は寝床と化し、卒業を目前にして単位が切れた。
唯一、体育の教師だけが留年は免除してやってくれと全教員に掛け合ってくれたようだった。条件は”鴨川10kmを2週間走り続けさせる事”という誘いに乗った私は走り出した。しかしある1人の教師が途中から騒ぎ出し、マラソン懇願も10日間で終止符が打たれた。
留年が確定したのだ。
この騒ぎ出した教師のお礼参りをする提案も多方面からあったが、身から出た錆だ。こんな事で捕まったようでは男の面子に関わる。ダサすぎる。
教師たちは残留することを薦めたが、学校の思い出がほぼない状態で再度通ったとて途中下車するのは目に見えていた。また私が通った高校は、26話にある悪ヒエラルキーの総本山からも通ってきているような公立だったから、後輩から一目置かれている存在だったであろう私が、彼らと同学年となり、常に気が休まらない状況に陥る未来が想像できた。
要はプライドが許さず、私は編入の道を選ぶ。
高校卒業時、山城は潤沢な仕事量で安定していた。
当時、年に何度か海外へ旅行し、これまで生きた集大成とでもいうべき人生を謳歌していた祖父は、私に大学進学させたかったようだった。年に何度か届けられていた手紙には、私への期待が表れる文面があった事を記憶している。
期待への裏切り行為とも取れる現実を、祖父に中々伝えられなかった父親の心中は察するに余りある。また現実を知った時の祖父の行き場のない感情の矛先の収め方、落胆ぶりは今となれば想像できるが、その頃の三代目は様々な思いとは反して、甘い蜜のみを求め、悪道に邁進しきっていた。
私が編入した高校は大阪にあった。
落とした単位のみを取得できるような高校で、最小単位で落第した私は、順調にいけば1年通わずして9月に卒業できるような高校だった。もちろん卒業式などない。ただ行って内容もない授業を受け、はい卒業だ。
本来なら入学と同時に教科書や体育の服装などを買い揃えるはずだ。
しかしこの高校ではそれら一切がなく、授業は耳で聞くだけ。
もはや卒業という肩書きを回数券で買うようなものだった。
有名大学を卒業し、今は社会的に全うな立場にある方、いやいや普通に高校を卒業した方でも想像できないのではないだろうか(笑) なんとももはやな京阪の掃き溜め。こんな高校で思い出など作りようもないと思うだろう。
しかし私は、この高校で多くを学ぶ事になるのである。