記憶を辿る 115話

– 京都ブランドとして –
この頃は本当にさまざまな所から声をかけていただいた。
そして多くの経験をさせていただいた時期だった。
テレビにラジオ、雑誌に新聞、ニュースサイトなど。
ステテコというニッチなアイテムがメジャーになったおかげで、単なる京都の若者だった私にも少し光が当たり始め、あの頃の何者かになろうともがき、友人知人の歩む姿に嫉妬していた自分は既になかった。
地に足がつき出したとでも言うのだろうか。
ワクワクドキドキ、充実した毎日だったと記憶する。
それには一つのきっかけがあって、まだまだ自身は若い、何者でもないと思っていても下からの突き上げがあったからだった。
この当時、SOU・SOUの社長が美術大学の講師をされていたことから、私にも何十人という生徒の前で話をする機会を作ってくれた。それが、何かしら”芯“を通さざるを得ない状況になったんだと思う。
人に話すことで自身の棚卸しや標が露わになったとも言える。
“SOU・SOU”が使う若者、会社ということで、一つドミノが倒れると雪崩のように他の大学や専門学校からも講師依頼が舞い込み、良いも悪いも様々なブランドからも声がかかる。
山城の創業から現在までを個人の話も織り交ぜていく授業。
何かを成し遂げた人のように映り、羨望の目で受講する生徒達、たくさんの質問や相談。
年下相手に結構いい気になっていたのではないだろうか(笑)

生徒さんの作った全く新感覚のステテコの柄は目を見張るものがあり、彼らがステテコという物に着目して”どうにかしよう”と思ってくれたことも嬉しかった。
どんどん発売していったら良いじゃないかと社長からも薦められたが、私がコストを考えすぎて実現には至らなかった。
このあたりのブロックのかけ方が一流と五流の違いなんだろうなと今更ながら反省する。
SOU・SOUさんが、こうした大きな流れを作れられた理由は、自社で我々の生地を採用し、採用する理由と支持されていることを意味付けする作業、段取りの一つとしてのことだった。
SOU・SOUさんは我々と違い、作るを糧にしていない。
こうした売れる仕組み作りをして物を作り、売る方々なのだから当然っちゃあ当然なのだけれど、取り組みは驚くほどのスピードで納める設定になるのは常のことだった。
初回投入の成功を見るのが早いか、次の設定が早かったのかは定かではないが、当時よくコラボされていた日本を代表する下着メーカー”ワコール”との三社協業プロジェクトも動き始める。
ワコールさんとの協業は、全国にまたがるプロジェクトだ。
我々が1年で消化するほどのm数を一つの企画で消化してしまうガリバー級。
同時に自身達の夏物企画にもドンドン生地は採用されていく。
手がける型数、枚数、企画物など多岐にわたっていった。
夏物は従来の”伊勢木綿”と”ちぢみ”でいく!
と決めたからには、全てを巻き込みブルドーザーのように突き進んでいく様は、さすがの一言。そして私からヒアリングした困っていることや要望を一つ逃さず実行していただいた。
例えば「1回で希望する生地発注はどれぐらいですか? そのコストはどれぐらいですか?」という問いだとすると、「50反(5,000m)は欲しいです。その場合だとコストはこれぐらいで納められます。」と言った要望だ。
私なんてチマチマしたもので(笑)
希望から数量を減らして聞いてしまうが、ほとんどは大きく上回った数量を聞かれる。
我々が提示した量が、それ相当の量だからこそ先の大きな流れを作る必要があったのだが、それを有無も言わさないスピードで作り出す若林力、巻き込んでいく力は凄まじく、やはり京都に”SOU・SOUあり”という思いは今でも変わらない。
京都の若者が頑張っているんだ、助けてやろう!
という親分肌のような、情けのようなものも感じて頂いていたのだと思う。
三代目のコラム 記憶を辿る116話に続く