記憶を辿る 114話
– ステテコの語源 –
steteco.comは、山城がクレープ肌着の委託縫製をいただいていたアズという会社が別事業で立ち上げたブランド。当初は、桐箱に入った超高級クレープ肌着や、白物のみのクレープ肌着を販売しているサイトだった。
アズは我々にクレープ肌着縫製の仕事を依頼してくれるだけでなく、婦人服やナイティなど幅広く扱うメーカーさんだ。大きな会社だが、成り立ちにクレープ肌着が大きく関わってきた経緯から、彼らもステテコというアイテムの行く末を案じ、暗中模索を繰り返していた。
そんな中、プリント柄の楊柳生地ステテコを発売したところ、これが感度の高い方々に刺さり、メンズアイテムにしては大きな流行を作っていたのだった。
それは年々加速度をつけ大きくなり、ユニクロが手を出したことで日本全国を席巻し始める。
この大きな流れの先行者利益とでもいうのだろうか、山城もしっかり乗らせていただいて参戦していた。
しかしユニクロが参入した時は驚いた。
しかもお得意先(103話)だったSOU・SOUのテキスタイルで発売してきたのだから尚のこと。
このコラボは賛否両論あったようで、界隈でプチ炎上。
コアなファンは激怒して、不買宣言まで出ていたことを思い出す。
より層の広い販路を使い、自分達のことを知ってもらう。
この選択はSOU・SOUにとってブレイクスルーになったことは間違いない。
そして我々にとっては、大きな障壁、痛手となったことも間違いない。
企業の成長と顧客様が持つ想いとの乖離、どこにでお付き纏う。
この大手の参入は価格競争を生み出した。
発売時こそプロパー1,500円ぐらいだったが、そのうち500円まで値下げされる投げ売りが始まる。
こうなると各メーカーが発売していたプリント柄のステテコにも赤文字が踊り始める。
ステテコという日本人にとって、普遍的なアイテムを使い、どうすれば格上げができるだろうと模索を重ねていた我々にとって、認知を広げてくれた感謝があるからこそ、より一層モヤモヤとした行き場のない思いも生まれだす。
弱小メーカーの商品は大手のマーケティングに使われる。
我々の先行者としての”利“は、彼らの戦略活動費として捉えられ、いけると思ったら根こそぎ持っていく。そんなことは今に始まったことではないから苛立ちは生まれなかったが。
こうしてブームになった”ステテコ“というアイテムは、おっさんが下着ではいていたアイテムからは脱皮して、女性の家着としても活用され、コンビニやワンマイル使いにもご利用いただけるようになった。
なんともありがたいお話しだ。
この一つのアイテムが数年に渡って世間を賑わせた理由は
ブルーオーシャン市場だったことで、小さいメーカーでも参入しやすかった。
老若男女が人生で1回は耳にしたことのある懐かしさのあるアイテムだった。
そしてこれが意外と、今までにない着心地の良さがあった。
そして何よりも”ステテコ“というワードが、どこか間が抜けていて気取らないイメージを連想させる愛らしさがあったことだろう。
ステテコの語源は明治時代、着物文化がまだ根強かった頃に生まれた。
噺家さんの初代(本当は3代目)三遊亭圓遊が汚物を掴むように鼻先を摘み
「捨ててこ、捨ててこ」
と言いながら踊る芸「ステテコ踊り」の際に、着物の裾から見えていた下着であったからとする説と、着用時に下に穿いた下着の丈が長く、膝から下が邪魔であったため、邪魔な部分を捨ててしまえで”ステテコ“と呼ばれるようになった説があるといわれている。
これはこのブームが生まれるもっと前、私が様々な図書館に行き、衣類関係の本を片っ端から調べ上げ、まとめあげた答えだ。
wikiをなぞってませんか? は近からず遠からずで、少し種明かしをすると、wikiへは今でこそ加筆はしないけれど、当時はバンバンしていて、wikiの”ステテコ“のワードで掲載されている内容のほとんどは私が加筆してきた事実がある(笑)
この行為を繰り返した理由は、有益な被リンク獲得という意味があり、日夜コソコソと励んでいたのだから間違いない。事実、掲載されている画像は山城が発売してきた商品のみだ。
角が立ちそうだから山城の名前は加筆しないけれど当時はしていた(笑)
こうした流れがあった”ステテコ”ブーム、ひと段落した今も”家着””くつろぎ着”として定着してくれている。一過性だったかもしれないが、山城をこの時に知り、顧客様になっていただいた方も多く、感謝感謝なブームだった。
三代目のコラム 記憶を辿る115話に続く