記憶を辿る 111話
– ご恩 –
その後もOEM事業は要所要所で話が舞い込んでいた。
大手通販さんを皮切りに、百貨店通販、飛行機の機内誌や俵屋旅館さんの型数増加など。
そういや楊柳ではないがボクサーパンツの量産なんて話もいただくようになっていた。
お話を頂けるようになっていったのは、垣根の低さだったと思う。
山城の工場は工場ではあるけれど生産ロットを少なく設定し、30枚からオリジナルが作れます! という案内をブログやWEBでしていた事が大きい。
1店舗しか持たない小売店ならオリジナルは難しいけれど、WEBも合わせて数店舗あれば生産ロットである30枚は許容範囲だし、オリジナル商品ということで値付けは各ブランドさんの采配を残すだけになり旨味も大きい。
そんな中、前述の飛行機の機内誌などの、全く新しい分野の話を持ってきていただく先との出会いも生み出していくきっかけがあった。それが107話で止まっていた百貨店催事での出会いだった。
初めての梅田阪急さんでの催事。
それはそれは輝く戦場のように私の目には映った。
美しいことで有名な方をアイコンにした化粧品ブランドさんの実演販売をセンターに、実益を兼ねたお役立ち商品やブランドが揃うような催事で、手描き友禅とTシャツは上手く同居していた。
次々に訪れるお客様の量、矢継ぎ早にドンドン販売していく巧みな話術と接客術、それまでに経験した事のない、お客様と店から生み出される活気、ワクワク感、”商売をするぞ!””買うぞ!”という空気感のある催事だった。
大型催事だからなのか、時代だったのか、大阪だからか(笑)
今では単体でしか出展しなくなった山城としては、こうした大型催事の活気を体感できず、何だか寂しい思いもよぎってくるぐらい”学び“しかないパワフルな初梅田だった事は確かだ。
そこに必死に食らいついて行こうとしていた当時の自分に”ほくそ笑んでしまう”けれど(笑)
この知識と経験不足の私を全面的にバックアップしてくれたのは、山城のブース前に陣取っていた京都シルクさんで、社員一丸となって山城Tシャツを着用し、シルクパフを買いに来たお客様を「めっちゃ良いTシャツあるんです!」とコチラ側へ誘導してくれただけでなく、販売員の確保や休憩時の補助、その後に繋がる阪急バイヤーさんの多くをご紹介いただいた。
このご縁をきっかけに翌年、翌々年と誘っていただけるようになり、毎年開催することを知る常連様やご新規様を生み出し、商品と共に私をも可愛がっていただくようになっていく。
「あんた見ぃひんかったら夏けぇへん」
「今年も私に似合うん作ったか?」
「なんぼまけてくれんにゃさw」
当時のバイヤーさんは今では退職されたり出世されたり、現場を離れた方も多くなってしまったけれど、SNSで繋がらせていただいている方もいて、”山城ただいま梅阪です”とタイムラインに流せば、「久しぶりやん、頑張ってんな」と足を運んでいただくことも多い。
話は前後するが、京都シルクの忘年会は毎年”京橋とよ“を貸し切って開催されていて、そこには関西一円の百貨店バイヤーだけでなく、様々な分野の方々が集まる新しい出会いの場、長らく会っていなかった方と再会させる場所として提供されていた。
ネットフリックスでも取材されるようになった”とよ“の料理とお酒で、参加者は杓子定規では生まれない楽しさや高揚感を共有するから、その後の仕事が凄くやりやすいのだ。
「僕こんなんやってるんっすよ〜」
「え〜そうなんですね〜、今度お声かけますわ〜」
それが杓子定規だと名刺交換から始まるソレに変わる。
「私、こういう商品を扱っておりまして。s$#Q&(Q」
「なるほど、承知いたしました。次回開催の折にはs$#Q&(Q」
どっちの方がお互いやりやすいのかという事である(笑)
これは良い宴席だなぁと感じたのは言うまでもない。
後年になるが催事業務にも慣れ、京都物販の横軸つながりを持った私は、それら仲間と共に関西にある各百貨店のバイヤーさんを呼び、メーカーや工場、小売店と百貨店の架け橋になれるような場所を作ろうと企画した、”京の繋がるナイト“を開催したのも京都シルクさんから受けた恩を少しでも返したかったから他ならない。
こうして小さな歯車は、力を借りながら少しづつ大きくなっていく。
三代目のコラム 記憶を辿る112話に続く