記憶を辿る 108話
– OEM事業 –
山城の自社製品をお客様に届けるという挑戦が、梅田阪急への出展が決まり、少しづつ形を成していっている頃、生業としていた工場を活かしていくのも私にとっては大事な仕事だった。
前述の仕事がメーカー型と呼ばれるのに対して、工場を活かすのはデフォルトであった下請け業とOEMと呼ばれる事業だ。OEMにも様々な形があるのだが、私が進めていたのは山城が使っているオリジナル生地を、他のメーカーやブランドに売り込むこと。
端的に言えば、他人の暖簾を借りて自社の知名度を伸ばしていきたいというものだ。
大手ブランドさんに山城の生地を使ってもらえれば、
「この生地よいよね〜」
「どこ生地なのかね〜」
「京都の山城というトコの生地らしいよ〜」
「調べてみよ〜行ってみよ〜」
という連鎖を生み出せると信じていた。
なぜ過去形になっているかと言えば、そこら辺の兄ちゃんが自分本位で生み出したような理想像に、簡単になってはくれないから(笑) 世間はそう甘くない。第一「この生地良いよね〜」となるまでのプロセスが抜けている。
お客様は”ブランド“を買っている。
その中に内包されているプレゼンスやストーリーという”物“を買っているといっても過言ではない。もちろんそのブランドが採用した生地にも興味はあるけども、その生地の物を買い集めている訳ではない。
あくまでもその生地を採用したストーリーやセンスに惚れるのだ。
多くの産地やファクトリーブランドが陥る”視野の狭さ“が起こす失敗。
もし仮に、生地に興味を持ってくれた人がいても、その店に欲しくなる物がなければ終了のゴングが鳴り響く。例えば、著名な方にプロデュースしてもらったりしたら、この障壁は少なくなるだろうが対価は大きい。
一連の話は難しいけれどやり甲斐もある。
今だったらもう少し賢いやり方も生み出せるかもしれないが、当時もまだまだあっちに当たり、こっちに当たりを繰り返しながら進んでいくやり方ばかりしていた。
OEM事業はTシャツを発売した2004年から始めていた。
最初のオーダーは同じ京都の超老舗である千總さんから入った。
当時の千總さんは、有名なグラフィックアーティストやプロデューサーなどとコラボして、着物文化を広めることにベクトルが向いていて、10色展開だったTシャツから3~4色をピックして納品していた。
その後もメールでの営業は継続していたが、千總さんのようなOEMというよりは卸しに近いお取引が多かった。そんな中、テレビCMも打っている通販雑誌の大手さんからお声がかかる。
お恥ずかしい話だが、雑誌名は知っていても会社名を知らず。
会社名を伝えていただいた電話では「ん?」のようなファーストコンタクトで、商談で訪れた新宿本社のデカさに尻込みをし、発行部数と発注予定数量に驚愕したことを思い出す。
何がなんでも取りにいって、なんとか会社内での発言力を大きくしたかったのもあると思うが、商談の際に提示される数字やデザインの全てに”OK”を出していく。
このお取り組みでは、襟にフリルを付けたデザインのシャツを山城の生地で作っていくことになるのだが、この全てに”OK”を出していく甘さが大きな失敗、挫折、屈辱を味わうことになろうとは、この時に気づけるはずもなかった。
三代目のコラム 記憶を辿る109話に続く