記憶を辿る 105話
– 前代未聞の所業 –
三越銀座店での出店(100話)から1週間後。
次は今はなき池袋店1階での催事が入っていた。
ご存知の方も多いと思うが、百貨店は毎水曜日にイベントや装飾が週替わりで変更される。これは不変的な慣習で、元は青果市場の休みに併せていたという説が有力だが、どの百貨店も定かではないようだ。
それに私の幼い頃の記憶でも京都大丸や京都高島屋も水曜日は休みだったし、終業も19時だったはず。もしかするとかつて、イベントは木曜日立ち上げだったのかもしれない。
この不変的な水曜日立ち上げという百貨店の慣習を、私は何を勘違いしたのかわからないが、池袋店の搬入をスッポかした。
水曜日から始まるイベント、火曜日の閉店後に搬入がある。
この大切な作業のとき、私は当時暮らしていたマンションで”ボ〜“っとTVを見て、「明日から東京やなぁ」と思っていた(笑)
時は21時に差し掛かる頃だろうか。
担当バイヤーから携帯に連絡が入る。
私は”明日から“と思っているから、「なんかあったんやろか?」ぐらいにしか思わず電話に出る。
「 稗さん、いまどこにおられますか?」(きつめ)
「あぁ、いま家ですが何かありましたか?」(余裕)
「えっ、、、今日は火曜日なので搬入なんですけど、、、#”=#$%0{“‘!! いまから来れますか??!!」(怒)
無理だろう(笑)
今から出張の身支度を最短でしたとしても、京都駅発(21:30頃)の最終に乗れるはずもなく、仮に乗れたとしても池袋入りは24時超えは確実だ。
しかし大チョンボをしたのは私であり、なんとも返事のしようもない質問に答えられずにいると、「わかりました! それでは明日の始発で上京していただき、10時までに設営を終わっていただけますか!!」
大噴火の担当バイヤーさんに平謝りをし電話を切る。
小さなワンルームを行ったり来たり。
自身の愚かさが招いた事態だが、なす術もないまま過ぎる時間は永遠かと思われるぐらい長く、次の日の始発まで一睡もできないまま新幹線に乗り込んだ。
どうしてこんな思い込みをしたのか検討がつかない。
だって荷物は余裕を見て月曜日着で送っているのだから。
早ぶる気持ちを抑えながらダッシュで池袋店へ向かう。
時は既に9時を半分回っている。
同じ出店者達の寒い視線を受けながらの設営は生きた心地がしなかったが、この寒い視線が会期中に功を奏していくことになるのだが、この時はまだ気まずいだけである。担当バイヤーも怒りながらも手伝ってくれ、なんとか開店を少し回ったぐらいで終了できた。
これが”いま“起こった出来事なら、完全にアウトだ。
最低でも設営に2時間、調整に1時間はかかる。
商品数が少なかった時代に学べて良かった失敗だった。
この池袋店は、”夏の涼“といった打ち出し方で、前面に東京の風鈴屋さん、藍染屋さん、七宝焼作家さんなどバリエーション豊かな作り手が揃った催事だった。
風鈴を作る職人の手に人の目が止まる。
季節のせいもあってか、隣の藍染に手が伸び、七宝焼で足は止まった。
お客様の目に留まる面が90cmほどしかないといえばそれまで。
なんとか目に入れてもらえるよう、考えた。
まずはバイヤーさんに許可を得て、商品を天井から吊るすと”ゆらゆら“動く商品が、隣の風鈴と共鳴するよう涼やかさを表現。これぞ風鈴効果!この策が功を成し、好転しはじめた。
好転 = 売上増
怒り心頭だったバイヤーさんの気持ちもおさまり、陳列する工夫や同じ出店者さんへの手伝いも積極的に動いたことで、日を追うごとに同業者の信頼を取り戻していく。
最終日を迎える頃には、売場で山城のシャツを着ていない出店者さんは居ないほど可愛がっていただき、歩く広告塔のごとく、商品アピールにも繋げてくれ、後に彼らが行う顧客様との商談会に委託で商品を貸し出すようになっていく。
とはいえ、実績として残るような売上ではない(笑)
大失態を何とかキャラで挽回しただけで、ビジネス的に考えれば、魅力に欠けているのは明らかだった。当然のことながら、以降バイヤーさんから連絡が入ることはなかったが、これ以降、私の出店スタイルに変化が生まれる。
隣の出店者さんが荷出しに困っていると手伝ったり、スタッフが接客中だったら代わりに接客に入ったり、休憩用のお菓子を差し入れたり。ほんの小さなことだが、共に働く出展者さんとの出会いを大切にし、助け合うことを率先して行った。
こうやって他の出店者さんとの交流がとても重要だったと後に大きく気付く出来事が、同時期に近鉄百貨店の上本町店からお声がかったことから数珠繋ぎに始まっていくのだった。
三代目のコラム 記憶を辿る106話に続く