記憶を辿る 連載10回目
– WOOD IN –
会社の周りも時代時代によって変わっていったが、小学校の時にはコロラドという喫茶店が家の前にあり、サイフォンでコーヒーを淹れる店で賑わっていた。
随分やり手だったようで、蛸薬師にも系列店が一軒あったと思う。
店の前のコロラドには父親がときどき行っていたから、くっつき虫でクリームソーダやホットオレンジなんかを頼んでいた。
いまだにコーヒーはタバコとセットだろうと決め込んで考えてしまうのは、こういった原体験もあるのかもしれない。
数年後に、今じゃ有名なシェラメールというケーキ屋さんも会社の斜め前できた。エスカルゴと呼ばれるロールケーキをよく母親に買いに行かされた記憶がある。ここの番頭さん(女性)は頗る愛想がよく、近所の人からも愛された店だった。
その横にはK山兄弟(連載9回目)のいた紳士服店、バブル期に躍進していた”つぼ八”が並んでいた。ここもよく父親に鉄火巻を買いに行かされ、更にその横にはWOOD INという店があった。今はゲストハウスなのかワンルームマンションなのかに変わってしまい跡形もないが、このWOOD INという店で、忘れられない出会いをすることになる。
この”WOOD IN”という店が面白く、今では京都に何店舗かある”さらさ”もココから始まっと記憶するし、ブラックミュージックを幅広く揃えるレコード店(エルコミュニティ)や自転車屋(ナチュラルサイクル)、アパレル店などが京町屋の中に混在する複合店舗だった。このレコード店に来る、音楽で繋がった友人達との思い出話はまた別の機会に綴るとする。
このWOOD IN、1階で自転車屋を経営する岸本さんという方が館主だったのだが、先見の明があるというか全てにオリジナリティがあり、館全体をセンス良くリノベしてしまうような方だった。
自分では”元々ヒッピーやから何でもすんねん”とおっしゃっていたのが心に残る。
まだ田の字地区に今ほど人が歩いていない当時でも、たくさんのお客様が来店していたことを思えば、話題の店だったんだろう。話は前後するが、後にこの岸本さんがブランドや商品について様々なレクチャーしてくれた。
京都ブランドとしてのパイオニア的存在は、亀田富染工さんのPagongや片山文三郎商店さんのBunzaburoだと思うのだが、この動きを見せるか見せないかの時期には、アロハを既に展開していたし、それを元に京都高島屋の1階で催事をされていたのも思い出す。
山城が催事という業態に目を向けるきっかけにもなり、今も店舗で使う竹製のハンガーの作り方を教えてくれたのも彼だった。
当時の私は、若者に流行っていたスケートボードを小学生からしていた事もあり、アメリカカルチャーを知る彼からすれば生意気そうな子供が近所でガチャガチャしていたんだろうから目に留まりやすく、今よりも情報が限られた時代だった当時、私からも彼の情報は興味深く、会えば長く話をしていたように思う。
後年、三条会に移ったナチュラルサイクルへ伺った際、既に岸本さんは他界。
そして当時奥さんの自転車の前に乗っていた娘さんが跡を継いでいた。店の中央には彼の大きな肖像画があり、彼を偲ぶ人が多いことを物語る。おそらく私が30歳ぐらいまでWOOD INはあったのだが、今、WOOD INが店の前にあったらなと思う事もある。
そんな目まぐるしく変わる環境の中で、私は多感な幼少期をすごしたのだった。