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涼しくて気持ち良いTシャツ

草案ができてきると、父親の行動は早かった。
山城が今まで蓄積してきた技術を応用することと、山城が持っている工業用ミシンを活用する方法を模索してくれたのだ。プロトタイプとなったシャツは、クレープ肌着特有のU首と呼ばれるシャツの襟を少し狭めたものだった。

これではTシャツとも呼べないし、着脱がしにくい問題が発生。
また縫製方法も今までのソレとは違うから、知り合いのメリヤス工場に頼み込み、私が一から学ぶ修行へ行く事となった。

確か大阪市内のどこかだった記憶だが、そのメリヤス工場の1階では、生地を裁断する裁断場とミシン場、アイロンなどをかける仕上げ場と出荷場が所狭しと併設されていて、2階が応接室と休憩室を兼ねたサンプル縫製用の部屋があり、この部屋が私の修行の場となる。

まだこの段階では山城が発売したいTシャツの形状などなかったから、この工場にある型紙を借り、持ち込んだクレープ肌着用の楊柳生地で作成することを繰り返したが、学びながら作った最初のサンプルは、プロトタイプと大差のない代物に仕上がってしまい、思い描く楊柳生地のTシャツを形にするには、伸縮性が最も重要になるとことがわかってきた。これだけでも成果は十分だった。

もう一つの問題は襟の縫製仕様だ。
簡単に説明すると、まず襟のパーツを作る。
そして前身頃と後身頃をくっつけた状態の物に、襟パーツをグルッと一周させるように付けていくのが一般的なメリヤス屋が作るTシャツの縫製方法。

しかしこれでは縦には伸びず、横に伸びる楊柳生地には難しく、今となっては縫製できるが、当時は誰もが経験のない縫製方法であり、変更せざるを得なかったのだ。加えて、伸び止めと呼ばれるパーツを肩から襟、そして反対の肩まで縫い付ける縫製方法も大変難しかった。

大切なのは、私や父親だけが縫えても無意味だということ。
工場のスタッフが縫製しえて初めて意味がある。
すなわち、オペレーションを作ることが大切なのだ。

当時の一般的なTシャツは、ある程度厚みのあるヘビーオンスのTシャツが多く、現在のようにスパンデックスが入ったテロテロのTシャツやカットソーはが出回ってくるのはもう少し後年。

この頃の生地が薄いTシャツと言えばフルーツオブザルームぐらいのもので、経年劣化で襟元はビロビロに伸びてしまうぐらいはデフォルトだった。こういった状況だったこともあり、ブランドとして差別化を図るため、グラフィックで差をつけるか、もしくはヘビーウェイト(生地の厚み)でビロビロを防ぐしかブランド側に方法はなかった。

これらが一様にメリヤス屋の縫い方をしていたものだから、修行をお願いした工場でも同様の縫い方を伝授してくれるのだけれど、何度やっても上手くいかず、メリヤス工場のおっちゃんから「もうえぇ加減にして」と言わしてしまうほどに、縫えなかった(笑)

ずっと読んでくださった方なら、お気付きだと思うけれど、やはりここでも”自分が動く”の手法は相変わらず。もちろん”まずは自分から”という要素は大切だけど、会社という単位で見るとなんか違う(笑)
あまりに職人的すぎる…。

今となれば、型紙を作るパタンナーに聞けば済んだ話である。
その中で山城にあるミシンとの整合性を高めれば良かっただけなのに、余りにも職人的な考えがすぎる社長と、教えを請う立場であった私は、そんなところにまで考えが及ばない。

結果、襟パーツを縫っていく手法ではなく、山城のミシンを活用した、生地を挟み込みながら縫い上げる手法を取ることを決めた。この方が襟パーツを縫いつけたTシャツよりも、経年劣化で襟がヨレヨレになる問題も解決でき一石二鳥だったのだ。

ひとつの課題が解決したと思えば、また次の課題がやってくる。
どんな課題が目の前を立ちはだかったでも、完成を目指している間は楽しくて有意義だった。

夜な夜な作り上げたサンプルを染め、工場の皆に見せると反応は様々。
道楽息子が何か始めよったでと遠巻きに見ている人、前のめりに解決策を提案してくれる人などなど。

解決策や課題のスキップ、起こりうる問題点など、今までの山城では経験したことのない未知の領域に入りだしていた。
もう自分を信じて進めるしかない。

そうやって、一つひとつ壁を越えていってようやく、最終形となるTシャツの形状も決まり、一気に事は動き出す。しかしここで我々は大きなミスをする。
生地は熱で縮んでしまうという原理、縮率というものを知らなかったのだ。

三代目のコラム 記憶を辿る88話に続く

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