記憶を辿る 80話
– サーフィン –
前話にある温泉遊びは冬から春。
夏から秋にかけてはサーフィンを楽しんだ。
太平洋の荒波は宮崎へ辿り着き、僅かに漏れた波が九州と四国の間の豊後水道を潜り抜け、国東半島南部に辿り着く。ちょうど大分空港がある辺りが下手っぴにとっての最良ポイント。
ただ常に波がある訳ではなく、太平洋上で台風だ雨だ、強風だとならなければ豊後水道は抜けてこない。最初は九州だから朝も夕方も海に入るんだと気取ったが、そんな訳にもならず、”週末に波がある時”ぐらいの緩い感じに落ち着いた。
親しい京都の先輩がハワイから仕入れたロングボード。
確か言い値で20数万払ったと思うが、先輩の懐に諭吉10人は入ったような気がする(笑) そんなロングボードを京都から持ち込んでの大分移住だった。
何度か通ううちに、緩いポイントの波はすぐに捉えられた。
国東半島の海は東側で、海側から見ると西日に向かって波を滑り降りる。
水面を掻き分けるように溢れ出る水飛沫と西日のコントラスト。
加速するボードに立ち上がるのがサーフィンだけれど、この”情景”を脳裏に残したくて、座ったまま砂浜まで辿り着く。醍醐味の一つを知った瞬間だった。
この日を境に毎週末サーフィンに繰り出すようになる。
波のコンディション次第では、波の崩れる方向にボードを進められるようにもなり、地元の顔見知りも出来始めた。
友人や知人が誰1人といなかった状況の私は、彼らが通う宮崎の日向灘まで着いて行ったり、大分のサーフショップへ一緒に出かけたりし、コミュニティで上手くやろうと心がけた。
明るい夏の国東生活が始まろうとした矢先。
鴨川で溺れた時(51話)のような事故を起こしてしまう。
日を重ねるごとに上手になっていった私は、過信する余り台風後のポイントに入るという暴挙に出たのが運の尽きだった。
この日のポイントは映画のように崩れていく波が生まれていた。
近くに河口があり、流れがぶつかり合う場所にテトラポッドが設置されていたのだが、その河口付近まで波が押し寄せているという状況だ。
普段の緩いお子様プールではなく、大人の急流プールといった様相だったが、この綺麗な波を体験してみたいという好奇心と衝動が抑えられなかった。
波の立っていない沖合に向かうも、通常よりもパワーがあって中々出ていくことができない。何度も何度も向かってくる波に押し戻されながらようやく沖合に着く。
山をバックに目の前で波は盛り上がり、まるでドミノのように右から左へと青空に吸い込まれるように崩れていく。波を捉え滑り出す。
自然と加速するボードは想像したよりも速い。
大きく弧を描きながら崩れ出す前の波まで戻ろうとするが、押し寄せる群衆のように制御が効かない。遠くに見えていたテトラポッドが近づいてくる。
50m … 20m
謙虚になって緩い波で遊んでいれば良かったのだ。
私は時々、過信し傲慢になる癖があるようだ。
書きながら自分自身に言い聞かせる(笑)
テトラポッドに突進し続け脳内はパニック。
残り10mを切ろうかという所でテトラとは逆方向へダイブする。
ボードは体から離れ、パワーのある波に揉まれたボードに引っ張られた足首に激痛が走る。次々と押し寄せる波にのまれ、海中でどこが海面なのか分からなくなる中、この世の物とは思えない轟音が耳に鳴り響く。
やっとの事で海面に出ても、すぐに押し寄せる波。
何度この状態から脱しようと試みたかわからない。
もう体力も気力も残されていない。
どうすればここから脱出できる?
そうか、大切だったボードが足枷になって身動きが取れないのだと判断した私は、リーシュコードを外し、強いパワーで当たってくる波と闘いながら、フジツボだらけのテトラによじ昇る。
藁にもすがる思いだった。
波がテトラに当たりつける鈍い音と共にボードが目の前で砕け散った。
まともや九死に一生を得た瞬間だった。
青色吐息で意気消沈、言葉がない状態で車に向かうと、すれ違うサーファーやギャラリーなどから「大丈夫ですか?」と矢継ぎ早に声がかかる。
気づけばコンタクトレンズもどこかにいき、テトラに引っ付いた貝類で傷をつけたんだろう。体中が血だるまになっていた。
後日、現場に行くとボードは粉々に砕け散った後で再起不能。
再度高額なボードを購入してともならずお蔵入りとなった。
この事件の時に幸いだったのが、最後は足がついた事だった。
鴨川で溺れた時もそう、あわや大惨事になりかねない中、理屈っぽいのだろうか。何かやり残して生かされた感は否めない。猪突猛進、真っ直ぐに。
私が今も走る原動力の一つでもある国東での思い出だ。