記憶を辿る 44話
– 甘え上手 –
日々運ぶスレートは1束が30kg、大型梯子は40kg。
メーカーから届いた雨樋の何本かを1束にした箱を肩に担いで納品する。
いづれも角が立っていて、肩や腹部に突き刺さるような痛みがあるのだが、半年もすれば慣れてきて2束3束を抱えて運べるようになる。会社の先輩は忙しさの余り、一気に5束を運ぶつわものがおられ、よくおちょくられた。
「 真平、お前まだ2束しか持てへんのけ 」
といった具合だ。こうなると負けじと多くを持とうと頑張る。
見る見るうちに腕や体は大きくなっていくのだが、無理が祟ってギックリを何度やった事か。このギックリ癖がついて以降、腰痛持ちになってしまい、百貨店での販売業務は近年まで相当に辛い日々だったが、現在では魔法の”腰痛施術師 TAHARA”がついてくれたおかげで、嘘のように腰痛は無くなった。
当時、父親も山城でバリバリだった頃。
悪道を突っ走っていた時でも月一は事務所に呼び出され説かれていた。
「 素直が1番や。何でもハイっ!ハイっ!で下っ端らしくや 」
「 すべてに”何で?”という疑問を持つようにしろ 」
「 分からん事に知ったかぶりはすんな 」
こういった事が相当に蓄積されていたのもあり、会社で最年少だった私は、いつも真平真平と顎で使ってパシらされ、時には怒られ、話を聞いてもらったりと本当に可愛がっていただいた。
私が先輩達の話を素直に聞けたことには、もう一つの理由がある。
それは若かりし頃、悪に覚えがある、いやそれ以上の方ばかりだったからだ。
1970年代後半、”なめ猫”が空前のブームだった 9話 にもあるリーゼント宜しくな頃、カミナリ族と呼ばれた当時のハミ出し者は、暴走族に変化しており、各地方でそれらは隆盛を極めていた。道路交通法の整備も追いつかないこの余波は、京都でも起こっており、最大1,000人規模の暴走族でトップだった人が会社におられたのだ。
この方を筆頭に、数多の修羅場をくぐったであろう方々の巣窟のような会社だったのだが、失礼がないように補足すると、彼らは既に”その道”は卒業し、家族の為に真面目に働いておられた事だけは断っておく。
こういった面々の日々の会話の面白さといったらなかった。
彼らが現役の頃、私はガンダムやキン肉マン消しゴムで遊んでいた。
ましてや私は、暴走族というカテゴリーには属していなかったから、自分が体験した事のないような全ての話に「それで?それで?」「何で何で?」と興味津々で聞き入っていた事もあり、可愛がって頂ける動機の一つだったに違いない。
私にとっては、素直な部分を取り戻す”リハビリ効果”もあったように思う。