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SOU・SOU

三越銀座店で街をロックしていた興奮を目の当たりにした後、京都に戻ってすぐSOU・SOUの店舗に伺った。既にこの頃には有名になられていたが、今のように裏寺だけでも何店舗も構える前、この頃は地下を含む3階建て社屋の1階と地下1階を運営されるているのみだった。

1階は地下足袋、地下で作務衣を販売されていた。
作務衣といっても一般的なそれとは違い、有名な素数柄を乗せた作務衣や、色展開が豊富で洋装を思わせるような作務衣がずらり。日本の伝統的な物を用いてはいるけれど、決して”ソレ”では無いデザインに驚く。

その中に黄土色に染められた見覚えのあるデザインがあった。
丸みのある襟元、胸元から下までボタンが付けられていて、少し着丈も長く裾がラウンドしたデザイン。そう、それは我々が長年作り続けていた”クレープ肌着”の”前開きシャツ”そのものだった。

違いは染色加工があるかないかぐらい。
それがSOU・SOUのタグが縫い付けられるだけでポップなアンダーウェアに変わり、Tシャツを発売するまでにC品クレープ肌着を使って試行錯誤してきた経緯を裏付けてくれているようで嬉しかったのを思い出す。

和物文化が根付き、その道の本物が揃う京都において、こうも文化を継承しながらも遊んでしまうブランドに憧れを抱き、思いはどんどんと募っていったのだった。

同時期、既に俵屋旅館とのお付き合いが始まっており、弊社製品も俵屋旅館が経営する”ギャラリー遊形”にも並んでいたのだが、SOU・SOUの商品も遊形には陳列されていて、商談で俵屋旅館に伺った際に勇気を出して聞いてみた。

「 SOU・SOUさんの商品が、なぜ遊形に置いてあるんですか? 」
「 若いのにSOU・SOUの若林くんは勉強家でね 」

こうして根掘り葉掘り情報を集めだし、何度も何度も商談そっちのけでSOU・SOUのことを聞いていく。そのうち女将も根負けしたのか「それだけ興味があるのなら紹介してあげるわよ」に至ったのである。

後日お会いした若林さんは、イケイケドンドン風情を醸し出す男臭い方ではなく、口調は優しくとも目の芯は鋭く、繊細で常に頭はフル回転されていそうなインテリタイプの方だった。

「 なんか一緒にやりましょか。」

恐らく若林さんにとって、人心を掌握する決め文句の一つであろう言葉を受け、恋焦がれた人にOKをもらったような、天にも昇るような気持ちになっていく。

そして恐ろしいほどのスピード感で、その夏には弊社生地を使った商品がSOU・SOUに陳列され始める。

初年度は数型だった取引が、次の年、その次の年と年を追うごとに倍々ゲームのように増え、知名度と発注数量を増やすために世界のワコールをも巻き込んだ小さな”縮みブーム”を作っていく様はまさに圧巻。

そして今も山城が使うロゴである、”京都縮織”の発案も彼のおかげで、後にこのロゴは不定期で発売される”日本のロゴ大全百科”にも掲載されるようになり、ブログや各方面で弊社を紹介いただいたこともあって、山城へのお客様の流入、認知が格段に増えて行ったのもこのSOU・SOUとのお付き合いが始まってから。
今でも私の中で足を向けて寝られない方々の内の1人であるのは間違いない。

余談だが、高校生の頃に通った1点物を多く扱う並行輸入のアメカジセレクトショップを前職で手掛けておられ、よく通っていたから一方的に知っていたこともあり、勝手にご縁を感じていたのもあるのかもしれない。

飛ぶ鳥をも落とす勢いを持っていたSOU・SOU。
何かを爆発させていくような躍動感やパワフルさ、物事、人を巻き込んでいく在り方は見習う以外に何もないけれど、古い考えや何十年と一緒の物を作り続けてきた山城との歩幅の違いは少しづつズレを伴い、彼らのスピード感に翻弄されるようになるのはもう少し後の話。

こうして憧れのブランドとのお付き合いは始まって行ったのだった。

三代目のコラム 記憶を辿る104話に続く

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