記憶を辿る 93話
– 河原町五条 –
新しい住処となる場所は河原町五条のマンションだった。
上層階は5LDKもあるようなマンションで、裏口では、センチュリーが待機している光景に幾度となく出くわすようなマンションだ。
低層階に位置する1ルームに近い1Kの部屋。
後年になり、部屋選びに百数十件、引越し8回を経験した今となれば、「どうしてあんな部屋を選んだものか」と思わざる得ないような部屋だった。初めて部屋選びをする初心者ならではの”新しい”と”綺麗”に惹かれたに違いない。
今でこそ河原町五条にも、小さな飲食店やスーパーも並び、軒並み値上がりしていると聞く。しかし、この当時はちょいと外食しようにも牛丼の”なか卵”、フランチャイズの名残りだった”第一旭”しか選択肢がないようなエリアだった。
四条以南の寺町が、まだ電気屋街として成り立っていた時代といえば分かりやすいだろうか。
ここから富小路三条までは、やはり自転車(笑)
当時の愛車(自転車)は、ANAマイルで貰った折り畳み自転車で小回りが効いて使いやすく、小さい頃からモヤモヤしてきた自転車熱が発動するまでは、子供みたいにあらゆる箇所にステッカーを貼って、それはそれは長く乗っていた。
無地のTシャツと、そのボディに和柄をのせた手描き友禅の商品がラインナップ。
サンプル的に作ったグラデーション染のシャツやグラフィックをのせたTシャツも販売を始めた頃、今もお世話になる1件の得意先さんから一報が入る。
そこは11代続く老舗旅館で、全国、いや世界のセレブリティが、京都の、いや、日本の本物を体感するために訪れる有名旅館だ。
この界隈には、合わせて3件ほど名の通った旅館があるが、それぞれの持ち味で競うことなく共存し、ぐにゃぐにゃとしながらも一本も二本も芯の通った、いかにも京都式な旅館(ホテル)である。
ご存知の方も多いであろう、”俵屋旅館”だ。
こちらの支配人が山城の前社長と同級生で、夜勤が明けたら父に電話がかかり、早上がりする日は父から電話するような仲の良い関係。もちろん私も小さい頃から何度も会っており、慣れ親しんだ”おっちゃん”といった感じだった。
後に”おっちゃん”の”支配人ぶり”を垣間見た時には、”おっちゃん”と思っていた自分を恥じ、支配人と女将との間にある”阿吽の呼吸”のような信頼関係は、一長一短では築き得ない空気があり、正に”番頭”という言葉しか思いつかない影の光、故人になられた際は社葬で偲ばれたことが言わずともがなである。
それまでに支配人を通じて、父が板前さんにと”クレープ肌着”を差し入れていたのが功を成し、大奥との世間話から「 最近、息子が帰ってきて頑張ってるみたいですねん 」と進言してもらったことをきっかけにした一報だった。
父と共に伺った時、異空間に迷い込んだような錯覚を覚える。
2階にある書庫に通され、私が目にする事がなかった書籍や絨毯の心地よさ、モダンな北欧家具に混じって無駄なく配置されている調度品との調和に度肝を抜かれ、自身の浅はかさ、上辺だけをなぞった京都なんぞ、なんと小さなことかと思い知る。
また女将の大切にしているモノへのこだわりや知識、デザイン力は驚くほどに深く、俵屋旅館の部屋で提供される石鹸は、開発に3年はかかったとおっしゃるほど、パッケージから香り、泡立ちなど全てが隙なく作られているのだ。
この根底に流れているのは、まさしく、お客さまへの”おもてなし”の心そのものである。
何をするにもこの”心”が全ての原動力であり、心があるからこそモノが活き、風景を彩るのだ。
この信じられないほどのこだわりと遊び心に加え、俵屋が考えるモノを形にされた店が、”ギャラリー遊形”として運営されていて、宿泊した人でしか手に取ることができなかった”おもてなし”の数々が、宿泊せずとも手に取り購入することができる。
オリジナルの石鹸にはじまり館内着やスリッパ、タオルなど。
当時の多くの旅館では、売店に並ぶのは地方のお菓子や土産品しかなかった頃、すでに”ギャラリー遊形”はその場所に存在し、新しいおもてなしを提供していたのだから、女将の先見の明というよりは、お客様への”おもてなし”の心や愛が、誰よりも深かったのは明白だった。