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父との休日

徒然と綴ったこのコラムも50回を迎えた。
ここに至るまでに「よぉ覚えてんなぁ」「そない有名人ちゃうねんし」「自分で書いてんの」などと揶揄されるが、こういう事があると自死を考えた頃ではない自分、超絶ポジティブヒーローだった頃を思い出し奮起するようにしているから全く効き目はない。
それにそう言ってくる人ほどよく読んでくれている(笑)

あとこうして続けられているのも、食レポや自身の趣味に頼った内容だったが、10数年間1日も欠かさずブログを書いてきたのは大きい。今となっては財産だ。
少林寺拳法を習った道場が提唱していた”継続は力なり”。
これが私の中でリフレインされていたんだ、何事も無駄はないとつくづく思う。

 

さて今回は閑話休題として、父と過ごした休日の話でもしよう。
小さい頃から、生業として京都と大分をフェリーで往復していた父は、家に居るようで居ない人だった。しかし京都に居る日曜日の朝は決まって映画に連れてくれた。

当時の京極や裏寺、河原町にはたくさんの映画館があった。
河原町三条北側には東宝公楽や朝日シネマ、少し南に下がって宝塚にスカラ座に京劇、京極にはロキシー、弥生座や松竹座、問題の八千代館に美松映劇。どこも小さい頃から親しんできた映画館だったが、今となってはMOVIXに集約されてしまったのが便利ではあるが何だか悲しい。

けれどゲームやインターネットなどの娯楽が増えたのも事実。
インターネットがこれだけ日常的になったからこそ、私でもこうして発信できるようになったし、興味を持って毎話欠かさず拝読してくれる人もいるのだから、時代の変化にあぁだこうだというのは、やはりナンセンスかな。

私にとっての映画とは、日曜日の朝という認識が強い。
規則正しい生活を送る父は朝が早かった。

子育ての多くを母に委ねていた労いという面もあっただろう。
近所の喫茶店へ行くようなモーニングムービーだった。まだ眠い目を擦りながら、朝イチで放映される映画に連れてもらう。

前日に何を見たいかを新聞で決めていたが、常に子供向けアニメがやっている訳ではないから、大人の映画を一緒に見る事も多かった。私がアニメに惹かれない原点はここにあるかもしれない。

私が好んだのは13話にもあるようにジャッキーチェン。
当時のチビッ子に大人気だったジャッキー映画は、ほとんど網羅していたのではないだろうか。レンタルビデオなんて小学校の高学年までなかった時代、映画は娯楽ヒエラルキーのトップだった。

父もまた中高生の頃は京極や河原町の映画館に通ったらしい。
彼は西部劇が大好物で、よくフランキーレインの”ローハイド”を口ずさんではピストルを打つ真似をしていたのを思い出す。荒野を舞台にした西部劇での撃ち合いは、青年の心を鷲掴みすることは簡単だったはずだ。

父に連れられる映画館では必ずパンフレットを買ってもらった。
そのパンフレットを映画が始まるまで眺めれば心が躍る。

指定席はなく全て自由席だった。
当時は同じ映画を何度見ても咎められる事はなく、終わって出ようとしない大人を見て「何したはんのあのおっちゃん」「もっかい見はんのちゃうか」ぐらいの緩さを許容する時代だ。

映画が終わると、昼ご飯まで父はパチンコに行く。
彼が興じる間は、京極にあった”野澤屋”と”きんとき屋”の屋号だったオモチャ屋をハシゴしながら、父が勝つ事を望んで待った。昼頃に一旦”打ち止め指令”を出しに行き、勝っていればオモチャ屋に、負ければそのまま昼ご飯に行った。

よく通ったのは、ピカデリーのあった京極六角の龍鳳。
今でもここは営業されていて、大将がゴルフ好きという事もあり、父親と世間話をしながら私は中華を頂いた。今でこそ龍鳳といえば”カラシヤキソバ”だが、幼い私はラーメンの一択。
ついでに頼んでくれた餃子を2人で分けあった。

その後はジャッキー映画なら家でジャッキーになりきる。
今思えば恥ずかしくて、ほくそ笑んでしまうが、家のあらゆる所を登ったり飛び降りたり、でんぐり返りやバク転をしたり。母親がニタニタ笑っていたのを思い出す。仮に今、私の息子が何かのヒーローになりきり、家で同じような事をし始めたとしたら、私はビールを開け、彼を肴に楽しむだろう(笑)

他の映画だった場合は、父が家に戻るか戻らないかで決まった。
一緒に戻る時は負けた時、再度パチンコ屋に向かう時は、勝ちが期待できる時。さすがに夜ご飯には帰ってきていたと思うが、恐ろしいほどに勝ったような日は公衆電話から電話がかかってきた。

「お母さんと19時に六角で待ち合わせな」

こんな感じで夜ご飯も外食に行ける日があった。
ここでも凡そ行く店は決まっていて、同じ六角にあった夫婦が営む”菊水”というお好み焼き屋か、河原町と木屋町の間のビールのアテが揃う”ミュンヘン”が多かった。

裏寺にあったカウンターが歪に曲がった2坪ほどしか広さの”陽気”という焼肉屋もよく通ったが、換気扇がなかった店内は母親が嫌がった事もあり出番は少なかった。

負けた時は、公園で一緒にキャッチボール。
私はサッカー少年だったけれど、父は野球が得意で、ボール遊びといえばキャッチボールが多かった。そこそこ私も野球は上手だったようで、たまたま通りかかった少年野球の監督からオファーを頂くようなこともあった。
それでもやはりスピード感のあるサッカーが好きだった。

今の時代は”イクメン”がデフォルトだが、当時は昭和のど真ん中。
プラス私の育った環境は商売人が多い地域だったから、休み明けの月曜日に「昨日お父さんにどこどこ連れてってもろてん」という声は余り聞いた記憶はない。それでも私に残してくれたアルバムには、色々と連れて行ってもらった姿が残っており、当時としては”イクメン”の方だったんだと思う。

時代によって変わる”お父さん像”、自身の息子が親になる時にはどんなイメージになっていて、私はどういう”祖父”として存在していくのだろうか。かつて私が父親を追っかけたように、息子もまた追っかけるようになるのだろうか。

子供達と過ごせる後10年ほどの甘い生活を思うと限りなく少ない。
今の私が真っ当だとは言わないが、受け継いできたこと、学び体験してきた男の陰陽の全てを含んだものを伝えながら、彼らには存分に夢の時間を楽しませてもらもうと思っている。

三代目のコラム 記憶を辿る51話に続く

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