記憶を辿る 25話
– 煌びやかなジュリアナ –
私の交友関係が広がっていった中学後半といえば、高校受験を控えた大事な時期だ。学力に合わせて選ぶ高校が違うのは当然だが、この時代に多くの京都男子が目指した高校があった。理由は簡単、モテ男確実! 御三家高校だったからだ。
東山、大谷、平安がその3校で、ダントツ1位は東山。
ブレザーが主流になっていく時代の中で、唯一”詰襟学ラン”だった東山に通う生徒は超絶モテていて、中にはゴレンジャーなどと呼ばれ神格化されている連中まで存在した。
まだ地下鉄東西線はなく、多くは三条京阪から出ていた京津線(路面電車)を利用しており、少し派手目な女子たちが通う女子校が、東山区界隈に数校あった。彼女たちの存在こそ、彼らがブランド化していく一躍を担っていたんだろう。男女が入り混じる路面電車内はまさにカオス。
今も三条京阪に鎮座する高山彦九郎像の前は、通称”土下座前”と呼ばれる待ち合わせのメッカで、バレンタインやクリスマスといったイベント時には、土下座前で待っていられる女性は彼女か一軍、京津線の改札から土下座前までの区間で待ち伏せしているのは二軍、三軍といった具合にオリジナルカーストも引かれていたと聞く。
受験に合わせ部活動に終止符が打たれた夏休みあたりから、弥栄中学の連中と毎日ツルむようになり、時を同じくして東山区界隈の女子校に通う女子中学生とも仲良くなっていったのもこの頃だ。
本中(ホンチュウ)と呼ばれていた彼女達は、多感な時期もあって高校から入ってきた連中よりも街でのステータスが高い。遊び出すのが早いという理由だけだったが、先輩には東山や大谷、大学生の遊び人を彼氏とする連中を持っていた。ファッションやデート場所の情報、女性ならではの武器の使い方に加え、怖いもの知らずな若さをも駆使した彼女達は、各年代との交友を魚のように縦横無尽に泳ぎ回る。
そんな彼女達と我々マセガキ中学生のグループが自然発生的に出来上がるのに時間はかからなかった。場所は24話にある美松映劇のゲームセンターや八千代公園だ。授業が終わると毎日のように溜まっていた。高校生の真似事をするのだが、所詮は中学生。18時を境に仲間は家路に着いて、公園ではオシャレなストリート系ダンサーやスケーターの先輩達が入れ替わるように八千代公園を占拠するという流れだった。
今のようにインターネットやSNSからの情報がなかった当時、時代の最先端を進み、自分の知らない世界を知る年上からの情報は宝物のようで、貪るように必死になって集めていたと思う。毎月発刊される”いま”の情報を取り入れようと、雑誌も食い入るように貪っていた。
Hot Dog Press に Boon 、Fine boysなど。中でもHot Dog Press の巻頭で連載されていた作家 北方謙三さんの”試みの地平線”と巻末の全国おしゃれスナップは食い入るように読んでいた。こうしてどんな事にも好奇心旺盛だった私は、様々なジャンルの年上と交流を図るようになっていく。
そんな時、既に高校3年生になっていた地元の先輩と道端で会った際「 ディスコ来ぉへんけ? 」と誘われたことがあった。なんじゃそれとなったのは言うまでもないが、声をかけてきた先輩の、そのまた上の先輩が自分達でディスコを借り切ってパーティを主催すると聞いた。年齢でいえば20歳オーバーの大人が主催するパーティに飛び級的に混じれるチャンスだ。
当時はこういったディスコの空き時間を利用して箱を貸し、昼間は高校生、夜の休業日は大人がパーティを催すことが多かった。ディスコからしても休業日を売上に出来るのだからWinWinだった訳である。箱によってキャパがあり、それにあわせてパー券は刷られるのだが、安ければ1,000円で入場出来る。ただ根性の悪い先輩や同年代は、後輩達に仕入れ値の1.5倍や2倍、下手したら5倍で売りつけ、挙句には架空のパーティ券だったという事もあったのだ。
ただどうしても同年代で捌き合うため、前述の大人のパーティに潜入できる機会はそうそう巡り合うことは無い。よくて派手な女子高生が主催するビッグノーズだなんだのといった有名主催者のパー券を中学生が買える程度だった。
話を元に戻そう。
時は往年のジュリアナが終わる時代。
友達の家に泊まりに行くとか何とか理由をつけて抜け出した私が向かった先は木屋町。今はホテルになって跡形もないが、京劇ボールの1階から2階をブチ抜いた大箱ディスコでは、TVでしか見れなかった光景が繰り広げられていた。
店に入る前は黒服がドレスコードを確認。
中に入るとお立ち台で扇子を持って踊るボディコン姿の女性、ジャケット姿で踊りながらナンパを繰り返す男性、シャンパンやウィスキーを始めとした酒類にバイキング形式で並ぶ多様なフード …
後にパーティ文化の潮目があって、眼下にあった光景は泡のように消えさるのだが、私が初めて行った大人のパーティは煌びやかすぎるほどの世界だった。俗に言うバブリーな世界だ。
東京では既に生まれ出した多様性の中で多くは姿を消したが、ある種のステータスを保持できる”その世界”は残っていたのかもしれない。まだ京都では一般に生きていた”あの時代のあの世界”を、ほんの少しでも体感できたことは、今となっては良い経験だ。おっと失礼!申し訳ないが当時の私は中学3年生である。生意気を通り越して開いた口は塞がりようがないのは分かっている(笑)
さてそんな煌びやかな世界を味わうきっかけとなった先輩からすれば、生意気な後輩は良い出汁だったようで、阿吽の呼吸で黒服チェックをくぐり抜け、カウンターから廊下、フロアに広がる女性に対してナンパを繰り返すのに付き合わされた。
その手口はこうだ。
会話の突破口は「 こいつ中学生やねん」
そして決まって返ってくるのは「 えぇ! すご〜い!! 可愛いや〜ん!! 」
と言う言葉で、一緒に飲もうだの一緒にフード取りに行ってあげるなどとなり、先輩を差し置いてチヤホヤされてしまい、終いには「 もう、お前帰ってえぇぞ 」となってしまった。私が飛び道具として使い物にならないことを知った彼から、誘いは二度なかったのは言うまでもない。