記憶を辿る 12話
– 高さ50cmのリーゼント –
8話にも書いたが自分自身がやりたいと思った習い事は長く続いた。
一番長く続いたのはサッカーと少林寺拳法だ。
当時、京都でサッカーの名門といえば、世界の釜本を輩出した山城高校で、そのグランドを借りる形態で活動している紫光クラブに通っていた。現パープルサンガの前身である。
小学4年生になる頃にはレギュラーになった。
それまでは日曜日のみの練習だったのだが、4年生になると階級が作られ、4Aや4Bといったクラス分けがなされる。6年生にもなるとDクラスまであったと記憶する。Dの子はCを目指すというサバイバルの中、常に入れ替えが行われる。
4Aになった私は、木土が練習、日曜日は京都だけでなく関西全域に遠征するようになる。
ここが味噌なところで、日曜日の通常練習に4Aは山城高校のグラウンドには現れず、たまに試合のない日に現れたりすると同学年でも”Aが来てる!”となり、小さなステータスが生まれてくるのである。
京都市内のサッカー好きやプロを目指す子供たちが集まるクラブには、田の字地区では群を抜いていても、ここでは最下層。上手くなりたい一心で夕飯後には富小路でドリブルをしたり、リフティングの練習をして4Aを維持しようと必死になる。
当時、修学旅行は京都がメジャーな時代で、近くにある旅館には、修学旅行生が訪れ、サッカー有名校の中高生もやってくる。夜の自由行動で出てくる時間に合わせて練習を始めると、サッカー有名校の旅行生がこぞって教えてくれたりしたものだ。
今でも記憶に残っている修学旅行生との出会いがある。
高さ50cmはあろうかという金髪リーゼントにボンタン。
しかしボールを持つと恐ろしいほどにサッカーが上手な人がいた。「俺は市船の補欠だよ」と笑顔で話す。千葉の名門高校は、こんなに上手な人でも補欠なのかと、当時は驚いたが、今となればその風態が原因だったかもしれないとふと思う。せめて20cmぐらいのリーゼントなら、世界に羽ばたいていたかもしれないと思うとなんだか残念な気持ちになる。
話を元に戻そう。
こうした影の練習の成果もあって徐々に上達するが、周りも同じように努力を続ける。上手も下手も皆が負けまいと練習をしているのだから当然だ。チーム全体のレベルは上がるが、個人では勝てないのである。
監督からしたら、してやったりだった。
ある日の遠征試合でメンバーがファールを受けた事があった。
我々チームのボールとなって試合は再開したが、近くにいた私の目にファールはなかった。
あったのは、受けてもいないファールを、プロ並みのアピールをしてマイボールを勝ち取る小学4年生の姿だ。その瞬間、この連中には敵わないと悟った。
当時はJリーグもなく、たまにNHKで有名試合が中継される程度だった「サッカー」。
そんな世情のなか、こんな事を出来るという根性と情報力に慄いた。
この出来事と前後して、足の甲に違和感を覚えることが多くなる。
最初は疲れなんだと思い、病院でも先生からも「少し練習を控えなさい」と言われたが、痛みはずっと続いていた。特に甲の内側を使ってパスを出す際、ボールが当たる度に痛んだ。
これには違和感を感じ、レントゲンを撮って原因が判明。
いったいどの成長期だったかは不明だが、甲の骨が出来上がる過程で、小さな小さな溝が出来ていた。この溝の中に筋肉が入り込む形で、足が形成されたため、決まった位置にボールが当たると痛むのだった。
今の技術ならできるかもしれないが、当時の技術と成長期を挟んだ手術は無理だと宣告を受ける。サッカーを続けることはできても、疲労が溜まれば痛みは起きやすく、サッカーを続けるか続けないかは私の判断にかかってきた。
こんな風に話すと、まるでお先真っ暗な出来事のように聞こえるが、当時は超絶ポジ男!全く気にしなかった。
ただ痛みは練習が激しくなるにつれ比例していく。
プロを目指すことは諦めた出来事ではあった。
中学に入ってからもサッカーは続けていたが、この出来事を境に、紫光クラブから自然と足は遠のく。退団の際、「なんでやめんねん」と聞かれて返答に困った記憶が残る。
ただこのサッカーを通じて、仲の良かったメンバーの1人とは音楽を通じて再会。今は東京で有名ブランドのディレクターとして活躍し、たまにSNSを通じて交流がある。人と人とのつながりは面白いものだ。
サラッと書くつもりが長くなった。
次回は継続した習い事、の少林寺拳法の話をしようと思う。