記憶を辿る 20話
– ファッションと私 –
神輿の話で時系列がおかしくなったので元に戻そう。
小学校4〜5年にもなれば、段々とませはじめてくる。
当時ファッション雑誌を手に取った覚えはないが、向かいのマンションに住む友人のお姉ちゃんに影響を受け、三条寺町にあった”京文堂”へアイドル情報誌”明星”を買いに行ったことがあった。その際、そこのお婆ちゃんに
「真平ちゃんもお兄ちゃんになったんやなぁ」
と言われ、絵もいわれぬ恥ずかしさ、何かしてはいけない事のような、お婆ちゃんの期待を裏切ったような気持ちになったことを覚えている。
当時、アイドルショップが寺町と新京極に何件もあり、前述のお姉ちゃんと一緒によく行ったものだ。
各アイドルのライブで撮影した海賊版だったのかもしれないが、何番のブロマイドは持ってない、これは新しいヤツだやと言うお姉ちゃん達を他所目にグッズを漁っていた。
そんな中、なぜか私は”浅香唯”推しだった。
スケバン全盛だったのだろうが、浅香唯を好きになった理由がわからない。誰かを、何かを選ばないといけないような気になり無理矢理選んだのかもしれない。数ヶ月で推しに飽き、油性マジックペンで変顔に彩られた浅香唯の下敷きだけが残った。
この頃になると学校にも洋服は自身でコーディネート。父親に連れられて行くジーンズショップのお姉さんが私のファッションアドバイザーになった。
新京極蛸薬師に、飛行機が突っ込んでいるゲームセンター”オリンピア”の前に1件、今は喫煙所になっている場所に小さなジーンズショップがあった。父親が京極センターや寺町センターの今は無きパチンコ屋で勝った後、家に電話がかかって呼び出されていた記憶がある。
そこで買ってもらうジーンズは特別だった。
近所に量販店がない地域である。
母親の買ってくる服は決まってBeBeのセール品。
それを言うと、決まって”お坊ちゃんだったのね”と言われるが、当時の母親は日夜生業を手伝う中、プライベートの時間も少ない時間のなか選んでくれる子供服なのだ。近所で探すのは当然だ。
セール品とはいえ百貨店ブランドだから良い物だ。
しかし、ませ出した高学年にとって、持ち服でのコーディネートを始めると、どうしても合わず、目指したい物にならない事が出てくる。その中の筆頭がジーンズで、BeBeのジーンズには膝パッチやバックポケットにアップリケが付いていて、この子供臭さが気に食わなかった。
その点、人で賑わう夜の新京極、流行りのケミカルウォッシュから何度も洗いをかけたライトブルーのデニムなどを取り揃え、私に合うサイズをお姉さんが選んでくれる時間は心躍る時間だった。街で見るトレンドセッターと同じようなジーンズが出てくるのである。「このジーンズに合うのはMA-1のブラックだよ」とか、同学年では知り得ない情報が次々と出てくることも楽しくて仕方なかった。いつか私もMA-1着るぞ! みたいな意気込みも生まれ、買ってもらったジーンズは大切にしていた。
当時の男子にしては少しおませな高学年期を過ごしていたのだが、私に影響を与えた人の中に父親の弟の存在も大きかった。当時は未婚で同居していたのだが、次号で配する音楽の話も含め、流行を取り入れるのに長けた人だったと思う。
3階に住んでいた伯父さんの部屋は、屋根裏部屋のアメリカといった感じで、レコードはブロックで作られた棚に収まり、自転車はオブジェとしての機能も果たせるよう吊るされていた。サンドバッグにテーブルにベッド、その全てが新鮮でオシャレだった。私の発想では生まれない何かがそこにはあった。
今思い返しても、独身貴族の住まう最高の仕上がり部屋だった。
当時の彼はリーボックのガムソールやK・SWISS、その彼女は三角ロゴを蛍光色に替えたり、シューレースを電話線のような物に替えることの出来るケイパなどを好んで履いていて、彼の元を訪れる人がいる日の玄関では、スニーカーを手に取り凝視するように眺めていたのを思い出す。
それらに憧れ、母親にせがんで六角のサカエ(ダイエー)で買ってもらったスニーカーには、似て非なるArbookのロゴが踊っていた。
こんな事に気づいていたのかは分からないが、ケイパをはく彼女から誕生日にPUMAのスニーカーを頂いた。
貰ったスニーカーはまだ大きくて、すぐには履けない代物だったのだが、貰ったその日から勉強机の最上段に飾り、新品の匂いを嗅いだり眺めたり、履ける日が来るまで待てず少し大きめで下ろしたのも思い出す。
そういう事もあってか、私は革靴に全く興味がない。
いま1足だけある革靴は、冠婚葬祭と我が子のハレの日だけの出番。その代わりスニーカーには人並み以上のこだわりがあるのだが、そういえば十代後半に革靴を好んで履いていた時があった。まぁそれは追々書いていくとして、次号は小学校時代の音楽との付き合い方を綴ろうと思う。