記憶を辿る 47話
– 祖母の訃報 –
就職から2年が経とうとしていた頃、前から具合のよくなかった祖母の訃報が届いた。ちょうど配達時に携帯電話が鳴ったのを覚えている。
この何年か前、ご無沙汰だった工場に行った事がある。
そこには目の不自由な祖母の姿があり、記憶が小学校で止まっていた私は戸惑った。
いつも工場の女工さんに「この部分を上手く縫うには、手をここに置いた方がえぇねん」とアドバイスしていたり、裏庭で飼っていた鶏を朝早くから世話をしている快活な姿を想ったからだ。
大人になった私を見上げるように見つめ「大きなったなぁ」と染み染みと言い、なんとも言えない気持ちになっていた。よほど私と会えた事が嬉しかったのか、祖父から禁止されていた”コーラ”を床下から出してきて私に飲まし、別れ際も工場から出てきて手を振ってくれた祖母が去ったと知った時、ぽっかりと穴が空いたような気持ちになった。
1990年代後半、まだまだクレープ肌着は隆盛を極めていた。
白い肌着一辺倒ではあったが、朝から晩まで潤沢に仕事は周り、年間何十万枚を納品するようなご時世。時流を上手く掴んだ祖父に寄り添い、不慣れな大分へ移住を決意できる芯の強い祖母だった。
葬儀の際、裏方として女工さんがボランティアで手伝ってくれた。
移住した負い目はあれど、祖母の人柄や土地柄を象徴していたように思う。
葬儀の合間に、忙しい我々を思って裏方さんが作ってくれた”味噌汁”の美味しさには驚いた。関西は”昆布&鰹”のお出汁が主流だが、九州は”いりこ”や”アゴ”で出汁を取る。今でこそ”アゴ出汁鍋の素”がスーパーに並んでいるが、当時は皆無だったから衝撃を隠せない。
これに加えて白味噌ベースの味噌も効いていたんだろう。
何と美味い味噌汁なんだと何杯もおかわりをして女工さんを喜ばせた。
地方それぞれで違いがあるのを知ったこの体験が元になり、今では地方に行く度にそれぞれの味噌汁を体感することが出張の小さな楽しみになった。
そして祖母が荼毘にふされた蒸し暑い夏の夜、京都から集った親族で雑魚寝をしていた時のこと。
祖母が夢に現れ「また来るわなぁ」と行って去っていった。
隣で寝ていた従兄弟を叩き起こし「おぃ! 今おばあちゃんが夢に出てきてんけど、お前出てきたけ?!」と聞いたが「出てきていない」と言う。翌朝も親族に問うたとて同じ返事だった。
嘘のような話だが、その出来事に恐怖心は全くなく、むしろ柔らかで温かい感覚を持った。しかし、なぜ私なのだ? という疑問は未だに残り、こじつけかもしれないが、今もこうして山城という会社の歴史を背負う者としている以上、彼女の苦労や幸せ、思いを私が叶えていってあげたいと思うのだ。
そう、私のような孫にも包み込むような優しさと、いつも変わらない愛情を注いでくれた心強い味方が私の奥には控えている。こう思うと何事も挑戦できる気持ちが湧き、孤独から解放される。
不思議な体験をした一夜だった。